|
第50回 802ちず楽会
日時:2026年04月19日(日)13:00集合
集合場所:JR高尾駅 北口改札口付近
散策コース:高尾駅北口→(バス)→宮の前バス停→梶原八幡宮→城山入口→宗関寺→北条氏照墓→ガイダンス施設→八王子城址管理棟→金子曲輪→柵門台→小宮曲輪→本丸→松木曲輪→八王子城址管理棟→大手道→曳橋→御主殿跡→御主殿の滝→八王子城址バス停→(バス)→高尾駅北口
【散策コース】

【八王子城復元絵図】
【八王子城】
八王子城は、小田原に本拠をおいた小田原北条氏の三代目氏康の三男、北条氏輝(?-1590)が築いた山城である。
豊臣秀吉の関東制圧の一環で、天正18年(1590)6月23日、前田利家・上杉景勝軍に攻められて落城した。この八王子城落城が決め手となって、本拠の小田原城は開城、氏輝はこのとき小田原城に籠城中で兄の氏政とともに城下で切腹し、北条氏は滅亡した。
八王子城は、我が国最後の大規模な山城と言われている。氏照は、滝山城からいっそう急峻な深沢山(八王子城山)の麓に、政庁を移した。築城開始時期は不明(天正10年頃とされる)だが、天正15年(1587)頃までには居城を滝山から八王子城に移した。
八王子城は城山の山頂部を頂点として作り上げられた戦いのための山城で、次の5つの地区から構成される。①城主、北条氏照の御主殿を中心とした居館地区②山頂曲輪を中心としそれを取りまく曲輪群などからなる要害地区③家臣国の居住区である根小屋地区④城山川の東南部に連なる尾根の大鼓曲輪地区⑤太鼓曲輪のさらに南麓の防御に機能した御霊谷(ごれいや)地区北条氏照は、急峻(きゅうしゅん)な地形を利用した壮大な城郭を構想していたといわれるが、完成する前に天下統一を目指す豊臣秀吉の攻撃を受けて落城した。八王子城が豊臣勢の大軍の攻撃を受けたとき、氏照は手勢を率いて本家の小田原城での籠城戦に参加していた。
【八王子城合戦】
秀吉の覆東攻めの時、城主氏照は将兵とともに小田原に詰めていた。
北国軍と言われる前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの軍勢2万5千の攻撃を受け、守る北条方は千数百とも3千ともいわれ、約1日の激戦で落城したが、攻め手の記録にも城が堅固で籠城方が手ごわく戦ったことが記されている。
八王子城を防衛していた氏照の家臣のうち、八王子城に残っていたのは老臣やその手勢、さらに動員された農兵や山伏、僧侶などだったことが知られている。城代横地監物吉信のほか、狩野一庵泰光は元々北条氏康の家老級であり、氏照の大石氏への婿入りに伴って附けられたようである。下野榎本城を預かっていた近藤出羽守綱秀、金子家重、中山勘解由家範らが八王子城と運命を共にした。
戦死者は、周辺の寺の過去帳では527名もしくは680名、(『大善寺過去帳』など)『関八州古戦録』では、前田軍が280、上杉軍が273の首級をあげて秀吉に報告したとあり、一説には千余名が討ち取られたともいう(『桑都日記』)。戦後、山をまわって遺体の供養をした相即寺の牛秀讃誉は1,283体を確認して引導を渡し、うち283体を回収し埋葬したという(『相即寺寺伝』)。これには攻め手の人数も含まれていると思われ、かなり正確な数字といわれている。
戦いでは60余名の女性が生け捕られており、小田原城に籠城している者の関係者以外は解放され(『上杉文書』)、逆に関係する者は舟に乗せられ、小田原城から見える海上に連れて行かれたという(『天正記』)。討死にした中山勘解由、狩野一庵の首は僧侶に持たせて小田原城内の子供に届けられた(『天正記』)。
なお、城内には地元の僧侶も立てこもっていたようで、宝生寺・頼昭僧正と西蓮寺`祐覚上人が「軍祈」のために山に登り、城内で殉死したと伝わっている(『宝生寺過去帳』)。そのほか山伏も多数動員され、嶋之坊俊盛は生き延びて八王子宿で修験として暮らし、日吉八王子神社(当時は山王社)に八王子城のご神体を祀った。
梶原八幡宮
建久2年(1192)に源頼朝の命により、梶原景時が鎌倉の鶴岡八幡宮をこの地に勧進したと伝えられている。
参道の途中には、幹回り12m、高さ30m余りに達する杉があったが、昭和47年(1972)に枯れてしまい、現在は根元の切り株が残っている。この杉は、梶原杉と呼ばれ、梶原景時が地面に刺した杉の小枝(杖ともいう)から芽が出たものとの言い伝えもある。また、枝が下を向いていたことから逆さ杉とも呼ばれていた。
当日は、神社の大祭で出店も出て賑わっていた。
稲荷神社
梶原神社を出て再び霊園前のバス停の道に戻り、八王子城址入口交差点を左折して中宿の根小屋地区を進む。
中宿の中ほどの道沿いに石の鳥居が目に付く。鳥居の脇には狛犬では狐の像があることから稲荷神社であることが分かる。神社の名前は見当たらないが軒下の正面の額に「鱗」の文字と向かって右側の額に「神護」の文字が見える。向かって左側の額は八王子神社を祀った妙行の修行を描いたと思われる絵である。拝殿の横の祠には稲荷の使いである小さな狐の像が所狭しと並んでいる。入口の鳥居の横には一面に寄進者の名前を刻んだ石碑がある。
「鱗」は北条氏の家紋三つ鱗、神護は八王子権現の寺、神護寺(昔はこの地区をジゴジと呼んでいた。)などから、八王子権現や北条氏と関わりのある稲荷神社であることが推察される。
宗関寺
八王子城址入口から真直ぐの道が食い違うように曲がる右側は一段高く石垣になっている。曲がり角の東側には道路と直行するように溝状の地形が残っている。中宿大手門に次ぐ第の関門「横地堤大木戸」と呼ばれる堤の痕跡である。この大木戸を過ぎたところが横地監物、中山勘解由等重臣たちの居住地区であった。右側の石垣の上には宋関寺がある。この寺は八王子神社と同時期の延喜年間の草創で、牛頭山神護寺というであった。北條氏照が八王子城築城に伴い永禄7年に復興したが、八王子城落城後に朝遊山宗関寺として再興され、現在北条氏照の墓のある付近にあったが、明治25年にこの場所に移築された。
境内の梵鐘は、北条氏輝の百回忌に際して家臣の中山家範の孫が戦死者の追悼供養のために鋳造寄進したものである。
北条氏照と家臣の墓
宋関寺を過ぎて城山川の支流である華厳谷川沿いの道を北に進むと小高い山の上に北条氏照と中山勘解由等家臣の墓地が尾根上に散在している。
ガイダンス施設
八王子城の歴史や遺構の説明が行われている。
エントランス広場
芝生で覆われ、周囲にはベンチがあり、休憩施設にもなっている。
広場の中央には八王子城址の地形模型が置かれていて、城の縄張りや施設が分かりやすく説明されている。
八王子城址管理棟
管理棟の周囲には八王子城址の案内板が設置されており、管理棟にはボランティアガイドが常駐している。
山腹の曲輪
管理棟のある道の分岐部まで戻り山頂を目指してしばらく緩やかな道を進むと谷が広くなったところに出る。正面に石の鳥居があり、そこから山登りの道になる。尾根沿いの道を少し登ると左手が開け平坦な地形が繰り返し現れる。その最上部にある曲輪が金子曲輪と呼ばれる尾根上の曲輪で尾根の先端には、関東大震災の慰霊碑があった。
金子曲輪の尾根を西に進むと、大手山道、搦め手道、山王台曲輪への道、本丸への道が交わる広場に出る。ここは柵門台呼ばれ、山頂の要害地区に向かう要衝で、石垣や柵門が設けられていたという。現在の広場には特別な施設はないが、ベンチも置かれ急峻な山道の休憩所になっていた。
山頂の要害地区
柵門台から山頂に向かう道は、急峻で石段等の整備がされていない登りとなった。しばらく行くと左手上方にに2つの碑が見える。手前の上が円形の碑には「東京和合講社先達 邦井天界霊神」、奥の頭の尖った碑には「覚明霊神/普寛霊神/一心霊神」の文字が刻まれている。この先は九十九折の道となる。急な上り坂を過ぎ、一息ついたところで北側に伸びる平らな尾根が目に入る。尾根の先端には高丸と書かれた標識があった。ここは要害地区の入口に当たり、搦め手口と大手道が交わる守りの要となるから、北側の搦め手口へ下る尾根には数段の腰曲輪もあるという。
高丸から山頂の東を巻くように道が続く。尾根の先端に当たる樹木が切れたところからは八王子市街地から相模原方面まで広い範囲が見渡せる。さらにこの道を進むと谷の奥に向かい、要害地区の中心部に位置する中の丸曲輪に入る。この曲輪は、広い平坦部で中央部の奥に八王子神社がある。八王子神社(八王子権現堂)は、八王子城築城の際、北条氏照が八王子権現を城の守護神として祀り、八王子市の地名の由来になった神社である。以前は神社周囲の地面から落城の際炎上した米蔵にあったと思われる炭化した米(「焼米」と呼んでいた)が一面に出土していた。八王子神社は牛頭天王とその眷属神である八人の王子を祀る神社で全国に分布しているが、ここの八王子権現はこの山で修行をしていた妙行という僧侶(華厳菩薩妙行の称号を授かる)が、延喜16年(916)に祀り、氏照が八王子城築城の際守護神にしたと伝えられている。 現在、社殿は覆屋に覆われている。周囲には神楽殿や倉庫などの建物がある。
中の丸の西側の高台に続く石段を登ったところに、城の中心で最も重要な曲輪である本丸跡がある。本丸は尾根の最上部にあり、現在は本丸跡の石碑と祠があるのみであまり広くなく、周囲は木に囲まれている。
本丸の一段下の南東側は二の丸(松本曲輪)がにある。南東に面した広場からは、高尾山が谷を隔てて見え、相模国から武蔵国が一望できる。
中の丸を挟んで東北部に位置する三の丸(小宮曲輪)には狛犬と朽ちかけた社殿があるが、訪れる人は少なく、周囲は樹木に囲まれて見晴らしはよくなかった。
大手道
管理棟から城山川沿いの道に下り、城山川に架かる橋を渡ったところから右岸の山腹に向かう大手道が続いている。山腹に上がった辺りに昭和63年の調査で大手門の礎石や敷石が発見されたが、現在は埋め戻され説明版が建っている。
曳橋
城山川右岸の大手道から左岸の御主殿へ渡るため、御主殿の虎口に曳橋が架けられている。
虎口
御主殿の入口には石垣で囲われた当たる虎口が設けられており、櫓門があった。
御主殿跡
御主殿は政庁があったところで、現在は発掘調査に基づき広い敷地には、主殿の建物の礎石や会所の間取、庭園の石組などが復元されている。敷地の東には曳橋から桝形へ続く石段があり、広場の入口には冠木門が復元されている。
御主殿の滝
現在、水量は多くない(当日は水が落ちていなかった)が、落城の際多くの人がここに身を投げたと伝えられている。
|
|
散策コースの地図(PDF)

梶原杉

梶原八幡宮

八王子城入口の地蔵尊

閑窓寺

トキワマンサクの垣根

稲荷神社

稲荷神社に収められた狐

横地堤大木戸跡

横地堤大木戸跡の石碑

宗関寺

宗関寺本堂

宗関寺鐘楼

根小屋地区を行く参加者

北条氏輝・家臣の墓登山口

北条氏輝・家臣の墓地

北条氏輝の墓

北条氏輝の家臣の墓

北条氏輝の家臣の墓

中山勘解由屋敷跡

勘解由屋敷跡に咲く白雪芥子

登山口鳥居脇の石垣

登山口の鳥居

連続馬蹄形段

金子曲輪から柵門台への道

柵門台(八合目)

石碑(東京和合講社先達/邦井天界霊神)

石碑(覚明霊神/普寛霊神/一心霊神)

高丸(九合目)

高丸

高丸付近の石垣

展望台から東方向

展望台から北東方向

展望台から見た麓のガイダンス施設

展望台から東を望む参加者

中の丸(頂上)

八王子権現社への石段

八王子権現社覆屋

八王子権現社本殿

八王子権現社横の祠

八王子権現社横の天狗像

小宮曲輪の狛犬

小宮曲輪の石の祠

小宮曲輪正面から見た狛犬

小宮曲輪の狛犬

本丸に到着した参加者

本丸の石碑と祠

本丸の祠

本丸の祠内部

本丸の石碑

松木曲輪

松木曲輪の石碑

松木曲輪から見た高尾山

松木曲輪から東方を望む

大手門跡

大手門跡の土塁

大手道

大手道から曳橋へ

曳橋全景

曳橋と虎口

大手道から見た虎口

曳橋

曳橋から御主殿を望む

曳橋から御主殿を望む

虎口の石垣

虎口の石垣

虎口から見た曳橋

御主殿全景

御主殿での参加者

御主殿に咲く上溝桜

御主殿の滝の碑

御主殿の滝

御主殿の石垣と参加者

御主殿の石垣と参加者
|
|