第 43 回 802 ちず楽会
日時:2024 年9月 22 日(日)13:00 集合
集合場所:中央線 日野駅改札口
散策コース:日野駅→日野宮神社→東光寺→日野用水→東福寺(小宮)→石川→宇津木
【日野用水】
日野用水は、永禄 10 年(1567)、当時の滝山城主北条氏照の力を借りて、美濃からきた佐藤隼人が開削し、日野の台地の灌漑用水として今日まで
440 年余りに渡り同じ場所を流れ続けているとのこと。現在も水量は多く、管理も行き届いており、400 年以上も前に掘られた水路とは思えない。
多摩川と浅川に挟まれた日野は低地であったため、灌漑用水が必要だった。江戸時代には、日野本郷・万願寺村・下田村・新井村・石田村・宮村・上田村の七村を灌漑していた。用水の総延長は日野市全域で
170 ㎞に及び、多摩の米蔵と呼ばれ、三千石ともいわれた石高をもたらした。現在の取水口は八王子市の平堰にあり、途中で下堰掘と上堰掘に分かれ、甲州街道をはさむように流れている。
【加賀塚】
栄町の加賀塚公園内にある径3m、高さ50cmほどの塚で、戦国時代にこの地を治めていた竹間加賀入道の墓といわれている。
竹間加賀入道は、滝山城主北条氏照に仕え、鉢形城の守備にもあたった武将で、天正14(1586)年に氏照が日野の竹木伐採を禁じた文書の中に名前がある。
豊臣秀吉の関東攻めの際、交戦状態に入った天正18(1590)年に鉢形城から帰り、この年の2月8日にこの地で切腹した。
現在、塚には昭和15(1940)年に加賀入道の子孫が建立した墓碑と、古くからある自然石の2基の碑が立てられている。
(参考:1994年3月31日発行『日野市の文化財』)
【古甲州道】
戦国時代以前の武蔵府中と甲斐府中(現在の東京都府中市から山梨県甲府市酒折まで)を結ぶ武蔵国と甲州国との物資交流の要路で武田氏と後北条氏の戦いの道でもあった。古甲州道は、府中市から日野市万願寺付近で多摩川を渡り、日野市の北を多摩川沿いに八王子市小宮に向かい、小宮から谷地川沿いに加住丘陵の裾を滝山、戸吹、五日市に向かう。五日市から秋山川沿いに檜原村、小菅村、大菩薩峠を越え、山梨県に入る道だが、現在では詳細なルートは分かっていない。武蔵と甲州を結ぶ道は、江戸時代に日本橋から諏訪市を結ぶ甲州街道が五街道のひとつとなり、八王子、大垂水峠、小仏峠、笹子峠を越え、山梨に入るルートになり、甲州道は次第に使われなくなった。
【日野宮神社】
古くは日野宮権現と呼ばれていた。日奉(ひまつり)氏を祀る。日奉氏は、武蔵七党のひとつで西党を名乗り、平安時代から鎌倉時代まで東光寺付近を本拠としていましたが、日奉氏一族のほとんどは和田義盛の乱(1215)にて滅亡し、平山一族だけが存続し、その後、平山氏の子孫は檜原城主となった。檜原村の「檜原」は「日野原」に由来するともいわれている。
神社のある四谷では多摩川が洪水で決壊しそうになったとき、堤防の穴をウナギが塞いでくれた伝説があり、日野にはウナギを食べない習慣がある。
【東光寺】 天台宗萬照山東光寺成就院は、平安中期、武蔵国の豪族日奉氏が日野台地の一角に館を設け、その鬼門の方向建立し、薬師堂を創建したと伝えられる。何れも廃絶して地名にその名を残すのみとなっていたが、天正8(1580)年に僧円勝が武蔵七党の武将日奉宗忠の居城の鬼門除けとして、運慶作の薬師如来の護持佛をこの地に安置して寺を再興したと伝えられている。
境内にある単層寄棟方形造銅板葺の現在の薬師堂(方三間)は、嘉永2(1849)のの類焼後、嘉永6(1853)年に再建されたもので、日野市指定の重要文化財になっている。
なお、運慶作の元薬師如来は永代秘佛とされ、堂内の御厨子内に安置されたまま御開帳はされない。現在の(東光寺安産薬師如来)は、木彫坐像、等身大、室町期の作で、脇侍の舟形光背をもつ日光・月光両菩薩及び眷属12神将を従えており、何れも同時代のものとされ、日野市の指定重要文化財になっている。
【東光寺神明社】
創立年代は明らかではないが、武蔵七党の中の西党の祖、日奉宗頼の子孫が、また一説には、和田義盛が執権北条義時に敗れ、その残党が、伊勢神宮を勧請したとも言われている。神明社は、各地に散在した伊勢神宮の御領地に、神宮側で建てられたものと、伊勢神宮を崇敬する人によって建てられたものがあり、前者は鎌倉時代以前から、後者は室町時代になってからといわれ、当社は、言い伝えから後者に属する。
【お茶屋の松】
工場の中を歩いていると、建物と道路の間の芝生に松の木があり、「お茶屋の松」と説明があった。
お茶屋の松というのは、かつて日野市と八王子市の境に、たっていた松の大木で、八王子市指定の天然記念物に指定されていたようである。この付近は、古代から国府道と鎌倉道の交わる所で、ここを行き交う旅人の道標にもなっていたようだが、現在は未だ若い松の木が周りの木々に埋もれるようにひっそりと立っている。
お茶屋の松の前の道を西に向かい、工場の北の道に出たところが、旧谷地川が多摩川に合流する地点だそうで、今も水路のような小川がある。(2013 05
11)
【七ツ塚】 七ツ塚古墳群は、日野市指定史跡で、墳頂に金刀比羅宮が祀られている。
かつてはこの辺りに多くの古墳塚が存在したというが、現在は削平されて変形してしまっているが、5基ほどが確認できる。
明治時代には、まげを結った女性埴輪や管玉、勾玉なども発見されている。
昭和29(1954)年に横穴石室を中心とした古墳が発見され、内部から直刀、刀子、鉄の鏃などの副葬品が出土した。
この古墳群の造営時代は7~8世紀頃と推定されており、この一帯からは旧石器時代の遺物や縄文時代の居住跡も発見されている。
【小宮駅周辺】
JR 八高線小宮駅周辺は、かつて「粟ノ須」と呼ばれていた地区。JR 八高線が開通したのは、大正 14 年、昭和 5 年に刊行された 5 万分の
1 地形図「青梅」の図に現在の位置に「こみや」駅が描かれている。駅の南、北側の多摩大橋へ向かう道路の下には、開設当時から変わらない八高線の線路と南に向かう旧道が残っていた。
そこから歩道橋で八高線を渡り、北に向かうと、すぐに東福寺に着く。振り返ると、東福寺に接して八坂神社の小さな社殿が目に入る。これらの社寺は、南の八高線が走っている面より一段高い段丘の縁にある。
【東福寺】
東福寺の縁起は詳らかではないが、観音堂に安置されている笛継観音は、戦国時代末期小田原北条の出城となっていた滝山城主北条氏照の家臣で笛の名手、彦兵衛にまつわる逸話(笛の名手の家臣に秘蔵の笛を預けておいたが、この家臣の手落ちで壊してしまい、観音に祈ったところもとどおりに戻ったことが城主の氏照に伝わり、この観音像の霊威に感銘し、以降、この家臣は「笛彦兵衛」と名乗ることを許されたという。)が残されている。
もっとも、参加はこの観音堂より、庭の片隅にある跨ぎ石(この石を跨ぐと子宝に恵まれるという。)の方に興味を覚えたようだった。(2013 05 11)
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散策コースの地図(PDF)

JR日野駅

日野駅下、煉瓦作りの橋脚

日野駅近くの日野用水

加賀塚の石碑

子孫が建てた石碑

加賀塚の説明

石仏

うなぎ伝説の飾り

庚申塔と地蔵

日野宮神社参道の彼岸花

日野宮神社拝殿

日野宮神社 合祀

日野宮神社の石仏

東光寺成就院

東光寺薬師堂

東光寺境内の馬頭観音

日野用水

谷治川を渡る日野用水

谷治川に放流される用水

日野用水の通水橋

東光寺神明社

東光寺神明社の鳥居

七ツ塚公園

七ツ塚公園の古墳

日枝神社の石段

日枝神社

東福寺境内の石仏

東福寺観音堂
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