第 40 回 802 ちず楽会
日時:2023 年 11 月 19 日(日) 13:00 京王線「平山城址公園駅」改札 集合
散策コース:平山城址公園駅→平山季重居館跡→宗印寺→季重神社→平山城址公園(西園・六国台)→(東園・展望台)→平山城址公園駅
平山季重居館跡(平山季重遺跡之碑、季重居館跡の碑) 平山城址公園駅ロータリー
居館跡は、後に曹洞宗の大福寺が建立されていたが、明治 6 年(1873 年)廃寺となった。
現在この地には、平山季重ふれあい館等が建てられ、居館跡を伝えるものとして、平山季重遺跡之碑と季重居館跡の碑がある。平山季重遺跡之碑は、嘉永 4
年(1851 年)に平山正義により建てられたものであり、碑文には季重の功績をたたえている。季重居館跡の碑は、大正 14 年(1925 年)12
月に七生青年団平山支部によって建てられた。
曹洞宗 宗印寺
境内にある日奉千体地蔵堂には、本尊地蔵菩薩坐像(高さ約七寸木造漆箔像)を中央に左右それぞれ五百体の地蔵像(高さ三、四寸)が安置されている。地蔵堂内には、江戸時代前半ごろの作と考えられている高さ約一尺一寸、寄木造の平山季重坐像が安置されている。
平山季重墓は季重 25 代の孫松本藩の平山季長が追悼のために建立。五輪塔(高さ 1.7m)は、旧居館跡にあった大福寺が明治六年(一八七三)に廃寺になったためここに移された。
日奉明神社(新編武蔵風土記稿)現「季重神社」
村の南の方山上に小祠あり 平山武者所季重が靈を祀れりと云う 近村引田村の日吉社に天正十七年奉納の絵馬あり 裏に武州多西郡引田村當領主日奉之朝臣平山右衛門大夫也とあり
是によれば當村も昔かの人領せし所にして村名も平山を唱ふれば後世季重をば祀りたるならん 例祭は三月六日なり 則ち季重が歿せし日なりと云う
平山城址公園
公園は東西に分かれ、西園には、野猿の尾根道、さくらの道、くぬぎの道、六国の道、ヤマツツジの小径、むじな窪沢などの散策路があり、東園には、展望広場の展望台、そよ風のデッキ、ひだまりのデッキ、ひとときのデッキ、終わりと始まりの広場などの施設が
ある。西園の湧き水を集めた猿渡の池には蛙、鯉、沢蟹、小エビ等が生息しており、六国の道と呼ばれる山道を登った先にある六国台展望台には石版製の眺望案内がある。
園内には 500 本のソメイヨシノやヤマザクラなどが植えられており、桜の名所として知られる。また、クヌギやコナラなどの樹木(広葉樹)が多く雑木林となっており、里山の面影を残している。「皇太子殿下ご結婚記念樹」が植えられている。
平山城と平山氏
平山城は武蔵七党*のひとつである西党・日奉(ひまつり)氏**の一族平山氏の居城。
平山氏は日奉宗頼(むねより)を始祖とする武蔵国西党の一族で宗頼は京都から武蔵府中に国司として赴任したが、任期終了後も帰国せず土着し、平安時代中期の平将門の乱が起こった頃に武士団としての活動が始まったとされる。宗頼の孫・平山八郎直季(なおすえ)がこの地に居館を構え平山氏を称したのが平山氏の始まりとされる。
直季の子・季重(すえしげ)は、保元の乱(1156 年)では源義朝に従い、平治の乱(1159年)では義朝の長男源義平に従って戦ったが、義朝死後は平家に従い在地領主となった。
季重は治承 4 年(1180 年)に源頼朝が挙兵すると源義経に従い富士川の戦いや佐竹氏征伐に従軍し、佐竹氏征伐の金砂城の戦いでは熊谷直実とともに戦功を挙げた。
また、源平合戦では源義経に従って数々の戦功を挙げている。寿永 3 年(1184 年)には、木曾義仲追討軍に従い上洛し、宇治川の戦いで根井行親、楯親忠を撃って京都に入り、一ノ谷の戦いでは、熊谷直実とともに一ノ谷の平家軍に突入して勝利のきっかけを作った。翌元暦
2 年(1185 年)の屋島の戦い、壇ノ浦の戦いでも先陣を切って戦った。
文治 5 年(1189 年)の奥州合戦(頼朝軍と義経・藤原氏軍との戦い)には息子の平山小太郎重村と参戦し、そこでも戦功を挙げて鎌倉幕府の元老として取り立てられた。季重は建暦
2 年(1212 年)に病没したとされ、宗印寺には季重の墓と木彫座像がある。
その後、平山氏は応永 23 年(1416 年)の上杉禅秀の乱でも活躍して檜原谷を与えられ、檜原城を築いて本拠を移した。
現在、平山城の遺構は見当たらないが、平山季重を祀った季重神社(日奉神社)のあたりが物見台だったと伝えられている。
子孫は戦国時代に後北条氏に従ったが、1590 年の小田原征伐で平山氏重は檜原城に籠城したが落城して平山氏一族は滅亡する。しかし現在でも平山氏の子孫を称する人々が多摩地区に多く暮らしており、子孫の一派は下総国で帰農した。平山城址公園駅前にある平山季重遺跡之碑の裏面には「二十五世孫
下総国香取郡鏑木村 平山信一郎日奉正義 建石」とある。伊能忠敬が伊能家に婿入りする際、香取郡多古村の平山季忠の養子になっている。季忠の妹タミは忠敬の姑(妻ミチの母親)、忠敬の実家は武射郡小堤村(現山武郡横芝光町)。平山家と神保家は親戚。季忠の孫(郡蔵・宗平)は忠敬の内弟子になり忠敬の測量に従事した。
*武蔵七党は、平安時代後期から鎌倉・室町時代にかけて、武蔵国を中心に勢力を伸ばしていた同族的武士団(横山党、猪俣党、野与党、村山党、西党、児玉党、丹党)の総称。
西党には、平山氏のほか、由井氏、立川氏、小川氏、田村氏、中野氏、稲毛氏、川口氏、上田氏、犬目氏、高橋氏、小宮氏、西宮氏、田口氏、駄所氏、柚木氏、長沼氏などがいる。
**日奉氏は、第 30 代敏達天皇(538~585)の時代におかれた部族、日祀部(太陽崇拝の行事に関係のある宗教的な品部と推定されている)の後裔といわれる。
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散策コースの地図(PDF)

平山季重遺跡之碑

季重居館跡の碑

宗印寺山門

宗印寺本堂

薬師堂

千体地蔵

地蔵菩薩坐像

平山季重の墓

林丈太郎の墓碑

五重の塔が入る佐原堂

地蔵堂

地蔵堂横の石仏

日奉明神社

六国台から臨む眼下の町並

六国台

猿渡りの池

八幡八雲神社

富士山を臨む

奥多摩の山並を臨む

産千代神社

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