第 37 回 802 ちず楽会
日時:2023 年 4 月 2 日(日) 13:30JR 高尾駅北口集合
散策コース
JR 高尾駅→熊野神社→旧甲州街道→古道→南浅川右岸(陵南公園南)→南浅川橋→稲荷神社・浅間神社→横山橋→南浅川左岸(桜並木)→東横山橋→睦橋→五月橋→南浅川右岸→水無瀬橋→霞堤跡→石見土手→馬場横丁→西八王子駅
熊野神社
祭神は伊(素)邪那岐命(いざなぎのみこと)
(由緒)創建の年代は不詳。諸国行脚の老夫婦がこの地に紀州の熊野本宮大社を奉斎したとの伝説がある。古文書(現存せず)に応安(1368)の頃、片倉城主毛利備中守之師親が創建したともいわれている。毎年八月の例祭には獅子舞が奉納され湯花の神事が執り行われる。
旧甲州街道
熊野神社から北に甲州街道越えると旧甲州街道が残っている。昭和初期に多摩御陵の建設に伴い甲州街道が拡幅され、また、明神町から高尾(駅)まで路面電車の敷設が計画された。
甲州街道は拡幅と路面電車を通すために直線化され、大きく屈曲していたこの区間は旧道のままの姿が残り、今もこの通り沿いには旧千人同心の屋敷や水路が見られる。
古道【武藏名所図会】より
「この道は往古秩父、高麗辺りより相州鎌倉、又は小田原などへの古往還なり、北は下長房村より上椚田の内なる原というところへ出て、それより当所下椚田村狭間へ出て、この地よりまた館村の堤が池の南に切通し道あり。又、それより寺田村へ掛り。当郡中の相原村へ掛り、相州の相原へ出て行く。又、小山、木曽へと出て行く道は、北は元八王子村に道あり。」
稲荷森神社・浅間神社
祭神は宇賀御魂命(うかのみたまのみこと)木花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)
応永 5 年(1398 年)法印弘山によって出羽三山の稲荷大明神を勧請したという。
明治 9 年(1876 年)火災により焼失、翌年社殿が再建された。現在は住宅地の中にあるが、かつては鬱蒼とした森林に囲まれ、稲荷森と言われたという。
横山出張所の建つ場所にあった浅間神社が昭和 3 年(1928 年)移築合祀された。横山事務所脇の塚は、浅間様と呼ばれた富士浅間社を祀った富士塚であるとのこと。浅間社は甲州街道の拡張と横山事務所改築のため、稲荷森神社に移築され、御神木のオオツクバネガシだけがこの地に残された。
桜並木
都立陵南公園付近の南浅川沿いにある桜並木は、例年 3 月下旬から 4 月中旬に見頃を迎える。「楊貴妃」や「白雪」など 16 種類ほどある珍しいサクラを楽しむことができる。
高尾駅から水無瀬橋のあたりまでの今回のルートは、ゆっくりと歩いても二時間かからない。桜の季節にお花見を兼ねてのんびりと散策を楽しむのに良いところ。水無瀬橋付近から南へ千人町を抜ければ西八王子駅も近い。
石見堤(いわみづつみ)【武蔵名所図会】より
「天正(1579~92)の初めに北条氏八王子城居の頃、小仏川、椚田川出水して、いまの散田新地というところは川瀬となり、それよりいまの千人町通りを流れて本郷村の下より浅川へ流れ入りける由。その後、八王子城陥りし後に、城下町の亡民を今の八王子町へ引き移されし後も、洪水またも島之坊宿辺より市中へ流れ入らんとせしかば、石見守下知を伝えて由井領、小宮領、日野領の村々へ課せしめて町囲いの長堤を築けり。新地と千人町の堺なる地蔵堂の脇より千人町裏通り、馬場地の南附きの土手へつづき、宋格院脇より島之坊宿の限りへ出て、本郷村多賀神社の裏通りより同村田圃の辺まで、上は坤(南西)の方より艮(北東)の方へ凡そ長さ十四、五町、敷三間余、高さ七尺許なり。石見守の功を以て築営せり。村民水害を避けければ、土人称号して石見堤と云。」
水無河原(みずなしがわら)【武蔵名所図会】より
「島之坊宿に接す。洪水のときには水瀬あれども、忽ち水涸れて河原となる。川上の原宿と号する辺りまでは常に流れて、新地村の裏より一滴の水なく地中を潜流して、本郷村より末に至りて湧き出せり。その間凡そ二十町余なり。それゆえ、この河原をミナノカワラと呼ぶべきものぞ。字の如く唱うるはあまり鄙野の訓というべし。又云新地にては、この河原を吉田河原と名づく。この川の水源は上椚田村より一流、また小仏宿の澗流一筋、この二流の水は河原宿と小名字(こなじ)との辺にて合流して一流となす。」
霞堤跡
江戸時代の千人町の絵図をみると、水無瀬橋の上流にあたる場所に「川除」として水衝もしくは霞堤と思われるものが描かれている。その内側に町囲いの「土手」が連なり、霞堤の上流側は千人同心の馬場となっていて屋敷は土手の内側に描かれている。
現在でもこの場所には霞堤が残っている。これはおそらく明治以降の改修で作られたもので、江戸時代に比べるとはるかに強固なものと思われるが、当該地は河川用地も広く、江戸時代から現在まで同じ場所に南浅川で最も強固な堤防が作り続けられていることで、ここが八王子治水の要所であることがわかる。
この部分から南西は連続堤防により南浅川の流入を防いでいるが、北東に向かっていた川の流れはここに作られた川除堤防によって北寄りに曲げられ、そこから右岸側に作られた連続堤防によって浅川との合流点ではほぼ直角に合流している。水無瀬橋から下流の自然堤防(河岸段丘)の状況からは、本来南浅川が幅広い河川敷を作っていて現在の合流点から
300~ 400m程度下流までの間を乱流していたことがうかがえる。
馬場横丁(千人町)
江戸時代は宋格院の西裏に馬場があり、明治以降も馬場の築堤跡が残っていた。さらに、馬場の外側には、浅川の洪水を防ぐ町囲土手(石見堤)が築かれていた。
通り沿いに馬場(乗馬練習場)があったことから、この通りは馬場横丁と呼ばれた。
市内電車
昭和 3 年、藤山愛一郎などが武蔵中央電気軌道株式会社を設立し、昭和4年に高尾駅前から追分町までが開通。昭和7年までに京王線東八王子駅まで8.4kmの路線が敷設されたが、騒音や乗客の減少、戦争による鉄回収などにより昭和
14 年に廃線となった。
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散策コースの地図(PDF)

熊野神社鳥居

熊野神社社殿覆屋

熊野神社社殿

熊野神社神木

熊野神社の稲荷社

JR高尾駅

南浅川上流部

南浅川左岸堤防
 南浅川左岸堤防
 南浅川左岸堤防

南浅川右岸堤防

南浅川左岸堤防の桜

南浅川左岸堤防の桜
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