浅川(大和田橋~水無瀬橋)(2021 11 07)

第 36 回 802 ちず楽会
日時:令和 3 年 11 月 7 日 13:00~
散策コース:京王八王子駅→大和田橋→浅川大橋→暁橋→川口川合流地点→浅川橋→鶴巻橋(八王子市役所)→南浅川合流地点→水無瀬橋→JR 西八王子駅

大和田橋の焼夷弾被弾跡
現在の大和田橋は、八王子市内の浅川に架かる最下流の橋で、国道20号が通る全長121.1m幅12mの橋。
第二次大戦の末期、昭和 20 年 8 月 2 日の未明、八王子市は、アメリカ軍のB29 爆撃機180 機による 67 万個という大量の焼夷弾投下により市街地の 80%が焦土と化し、死者 400名、負傷者 2000 名以上に及んだ。甲州街道の浅川に架かる大和田橋には、このとき落とされた焼夷弾の跡が残されている。
橋全体では 50 個以上になるといい、歩道上には 17 個の焼夷弾跡が残されているが、車道上は補修されて形跡が残っていないものもある。このとき焼夷弾を避けるため、大和田橋の下には多くの市民が避難し、一命を取りとめることができたことから戦争の痕跡を後世に伝えるため、橋の補修工事の際に焼夷弾の落とされた跡に色付きタイルで印が残され、道路の両側の歩道上のそれぞれ1箇所に、痕跡を透明版で覆って残すとともに、橋の両端左右には説明版も設置された。

元横山公園
浅川大橋近くの左岸堤防沿いにあり園内には桜が多い。堤防と公園の間には、旧川道の水路がある。


浅川大橋
1973年に竣工した浅川に架かる全長153.6m、道幅12mの橋。
暁橋
1960年に竣工した浅川に架かる全長122.6mの橋。道幅は6mと浅川に架かる橋としてはもっとも狭い。
中野橋
浅川橋の左岸下流で川口川が浅川に合流する直前に川口川に架かる橋。欄干には鮎やカルガモなど、川辺に見られる鳥や魚の彫刻が乗る。
浅川橋
1963年に竣工した浅川に架かる全長117mの橋。国道16号の橋であり、道幅は24mと浅川に架かる橋では最も道幅が広い。
萩原橋
1990年に竣工した浅川に架かる全長120m、道幅15.8mの橋。右岸の橋の袂には橋の建立碑がある。
鶴巻橋
1983年に竣工した浅川の最上流に架かる全長160m、川幅14.2mの橋。橋の袂には八王子市役所があり、橋の欄干には八王子に所縁のある彫刻像が乗っている。

水無河原
【武蔵名所図会】
「島之坊宿に接す。洪水のときには水瀬あれども、忽ち水涸れて河原となる。川上の原宿と号する辺りまでは常に流れて、新地村の裏より一滴の水なく地中を潜流して、本郷村より末に至りて湧き出せり。その間凡そ二十町余なり。それゆえ、この河原を水無河原と呼ぶべきものぞ。字の如く唱うるはあまり鄙野の訓というべし。又云新地にては、この河原を吉田河原と名づく。この川の水源は上椚田村より一流、また小仏宿の澗流一筋、この二流の水は河原宿と小名字との辺にて合流して一流となす。」
【水無河原の伝説】
「昔、弘法大師が諸国を巡歴してここに通りかかったとき、大師は永い行脚の疲れでのどの渇きを覚えていた。川のほとりに茅葺の家が一軒あったので、大師はそこに立ち寄り水をもらおうとしたが、この家に住む老婆は「夏は水汲みが苦労だから安々と飲ませるわけにはいかない。」と言って一杯の水さえ与えようとしなかった。仕方なく大師は川に降り喉を潤し、何事か呟いて何処へか立ち去った。その後、川の水は大師が下りたところから上下二、三町の間地面を潜って流れるようになったという。」

石見堤(土手)
【武蔵名所図会】
「天正(1579~92)の初めに北条氏八王子城居の頃、小仏川、椚田川出水して、いまの散田新地というところは川瀬となり、それよりいまの千人町通りを流れて本郷村の下より浅川へ流れ入りける由。その後、八王子城陥りし後に、城下町の亡民を今の八王子町へ引き移されし後も、洪水またも島之坊宿辺より市中へ流れ入らんとせしかば、石見守下知を伝えて由井領、小宮領、日野領の村々へ課せしめて町囲いの長堤を築けり。新地と千人町の堺なる地蔵堂の脇より千人町裏通り、馬場地の南附きの土手へつづき、宋格院脇より島之坊宿の限りへ出て、本郷村多賀神社の裏通りより同村田圃の辺まで、上は坤の方より艮の方へ凡そ長さ十四、五町、敷三間余、高さ七尺許なり。石見守の功を以て築営せり。村民水害を避けければ、土人称号して石見堤と云。」

霞堤跡
江戸時代の千人町の絵図をみると、水無瀬橋の上流にあたる場所に「川除」として水衝もしくは霞堤と思われるものが描かれている。その内側に町囲いの「土手」が連なり、霞堤の上流側は千人同心の馬場となっていて屋敷は土手の内側に描かれている。現在でもこの場所には霞堤が残っている。これはおそらく明治以降の改修で作られたもので、江戸時代に比べるとはるかに強固なものと思われるが、当該地は河川用地も広く、江戸時代から現在まで同じ場所に南浅川で最も強固な堤防が作り続けられていることで、ここが八王子治水の要所であることがわかる。
この部分から南西は連続堤防により南浅川の流入を防いでいるが、北東に向かっていた川の流れはここに作られた川除堤防によって北寄りに曲げられ、そこから右岸側に作られた連続堤防によって浅川との合流点ではほぼ直角に合流している。水無瀬橋から下流の自然堤防(河岸段丘)の状況からは、本来南浅川が幅広い河川敷を作っていて現在の合流点から 300~ 400m程度下流までの間を乱流していたことがうかがえる。


 

散策コースの地図(PDF)


大和田橋から浅川上流を臨む


大和田橋の焼夷弾跡タイル


大和田橋付近の浅川左岸堤防


元横山公園


元横山公園付近の浅川


元横山公園と堤防間にある水路


浅川大橋


浅川大橋から暁橋を臨む


下から見た浅川大橋


浅川大橋左岸沿いの水路


橋が高い左岸堤防


左岸の堤防から見た暁橋


暁橋


高さに差のある左岸堤防


富士山と高尾山


川に入る釣り人


上流の浅川橋方向の河川


暁公園


河川の距離標



流入河川の水門


下刻が見られる川底


浅川橋下流の川底


川口川に架かる中野橋


中野橋の欄干にある彫刻


合流部近くの川口川


中野橋の飾り


川口川合流部


浅川橋下の自転車道


浅川橋


水位標


右岸上流から見た浅川橋


河川距離標


堤防下は下り坂


川底から湧水が流れ出す


旧水路の合流箇所


水路跡の向いの道路


堤防が下がる水路の合流部


堤防に直交する下り坂の道路


河原橋付近の河川敷


河原橋下の川底


萩原橋


萩原橋の袂にある橋建設の碑


河原橋


河原橋上流の河川敷


堤防の内側に残る石垣


アメダスの観測施設


アメダスと市役所


鶴巻橋と奥多摩の峰


鶴巻橋


市役所駐車場近くの堤防


鶴巻橋下の河川敷公園


旧堤防跡(石見土手)


多賀公園内の旧堤防跡


南北浅川の合流部


城山川の合流付近

 

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