楢原~中野2020 10 18

第35回802ちず楽会
日時:10月18日(日) 13:00集合
集合場所:JR八王子駅改札前
散策コース:JR八王子駅(バス)→一本松バス停→一本松古墳→鹿島古墳→楢原遺跡→原屋敷遺跡→西中野遺跡→中田遺跡→中野甲の原遺跡→山王林遺跡→川口川→国道16号(バス)→JR八王子駅

川口古墳
川口郵便局の南の段丘上にあり、墳丘の形や大きさは不明だが、発掘により南北1m、東西3.5mの玄室の中から鉄鏃や刀子が発見されている。

一本松古墳
段丘の縁辺部にある。墳丘の一部が残っており、元の形は円墳と思われる。
現在の墳丘の高さは約1mほどで西側が道路で削られたと思われる。
古墳の名称となった松の木が一本、墳丘上にある。
発掘の記録は報告されていない。

鹿島北古墳
現在、直径3m・高さ0.7m程の高まりが認められることから、円墳の可能性が考えられる。
入口の鳥居と古墳の脇にある2つの祠(日枝社と御嶽社)は、古墳を合祀したものように見える。
発掘の記録は報告されていない。

鹿島古墳
楢原町の鹿島神社境内に存在し、7世紀前半の築造と考えられている。川口川左岸の段丘上にあり、周辺の段丘上にも古墳が点在する。鹿島古墳の規模は不明だが、埋葬施設である横穴式石室の羨道部や玄室が発見されている。石室の長さは約5.3m、幅は約1.5mで内部から直刀、刀子などが発見されている。

楢原遺跡
遺跡東部で縄文時代(中期~後期)弥生時代、古墳時代、平安時代、近世の集落跡が発見されている。主な遺構は、縄文時代の住居と土坑、弥生時代の住居である。主な出土品は、縄文土器、石器、土製円板、耳飾、勾玉、硬玉製大珠、土偶、弥生土器、炭化稗、土師器、陶磁器などである。なお、遺跡のには近世の塚が2基存在していた。

西中野遺跡
縄文時代(中期~後期)、古墳時代、平安時代、近世の集落跡が発見されている。主な遺構は、縄文時代の敷石住居跡と集石跡、古墳~奈良時代の住居跡、溝、ピット、古墳時代以降の堀立柱建物跡、土坑、溝、中近世の建物跡、竪穴状遺構、週関跡、道、土坑、溝である。主な出土品は、縄文土器、石器、土師器、須恵器、土製品、石製品、陶磁器などである。

中田遺跡
遺跡は川口川の北側(左岸)の微高地に立地している。遺跡は川口川の北側に接し、東西に伸びる微高地の標高約122~125mの段丘上に位置し、川口川は遺跡の南脇を流下している。遺跡の北側には東西に谷部が走り、遺跡を載せる段丘は東西に長い形で、長さは550m、南北の幅120mほどで、面積は38,000㎡です。50年前は水田に囲まれた桑畑となっており、周囲との比高差は1~3m ほどである。
縄文時代中期、弥生時代後期、古墳時代中期、古墳時代後期、奈良時代、平安時代、中世に及ぶ複合遺跡である。
古墳時代から奈良・平安時代の竪穴住居跡が広範囲に60棟以上検出され、さらに室町時代から戦国時代にかかる、大規模な溝や柵に固まれた屋敷跡が検出された。
これらのことから、中田遺跡は川口川沿いの微高地上に縄文時代以降ムラが営まれ続けたと考えられている。
特に、古墳時代後期には10m近くある大型住居跡が作られており、この流域を支配する豪族が住むムラであったと考えられる。
遺物は、旧石器時代の尖頭器、縄文時代中期の土器、打製石斧、磨製石斧、古墳時代後期から奈良・平安時代の土師器や須恵器の杯、鉄製品、石・土製品、中・近世の陶磁器などが出土している。

中野山王子安神社
神社ある崖下の湧水は、古くから「明神様の泉」として親しまれ、生活に利用されてきた。
かつては池から流れ出た水が田を潤し、撚糸業を営む家ではこの水の流れを利用して水車を回していた。
神社内の川戸と呼ばれる水場は、現在も農家が野菜を洗うなど地域の人々に利用されている。
池の中の複数地点から湧いており、湧水量は毎分1000リットル程度と豊富である。湧出点によって水質に違いが見られ、異なる涵養域からの水が池で混じり合っているものと考えられている。(「東京の名湧水五七選」参照)

 

散策コースの地図(PDF)


川口古墳


一本松古墳


段丘端から高尾山を臨む


段丘端から南西方向を臨む


段丘下の水路


日枝社鳥居


北鹿島古墳


日枝社と御嶽社


鹿島神社


鹿島神社神楽殿と本殿



鹿島古墳


楢原遺跡


原屋敷遺跡


塚跡


塚跡


原屋敷橋


川口川


中田遺跡


中田遺跡の建物跡


中田遺跡の建物跡


中田遺跡の建物跡


子安神社


子安神社の湧水


子安神社の池


中野山王子安神社


川口川旧河道

 

Copyright(c) E-Map802 Jan.2010