八王子市内(京王八王子~市内~JR八王子)2019 02 24

第29回802ちず楽会
日時:平成31年2月24日(日)13:00
集合場所:京王八王子駅
散策コース:京王八王子駅→子安神社→竹の鼻一里塚跡→市守神社→永福稲荷神社→大義寺→八幡八雲神社→甲州街道→産千代稲荷神社→時の鐘→千人同心の墓→興林寺 弘安の板碑→懇親会場(八王子駅周辺)

子安神社
子安神社は、子どもの守り神として、安産祈願や、七五三参りで賑わう古い神社である。
戦前の地形図をみると、神社の東側に南北に細長い池が見られる。
また、明治39年の地形図には、段丘の低いところに多くの小川が流れ、そのところどころに水車の記号が配置されている。(水車の記号は半円形に小さな突起が目印)
その水源は、段丘化した扇状地の扇端部が侵食された地点に現れた湧水で、子安神社の東側にも池が見られる。(現在は結婚式場の下に半分隠れている。)
ここから流れ出した小川は、神社の鳥居の前の道付近を東に現在の京王八王子駅方面へ向かって流れ下っていたと思われる。

水路跡
京王八王子駅前の道路は、JR八王子駅方面から下り坂になっており、駅の北側の道路は東に向かってさらに下っている。この道を東に向かい京王八王子駅の東側の通りで駅を振り返ると、駐車場と住宅との間に低く狭い路地があった。
この路地は普通の道路より一段低く、民家の裏側に位置し、路地と建物の間にはコンクリートの低い壁?が続く。この低い壁のようなものは、おそらく覆われた水路の上面が一部残されたものと思われ、ここがかつての小川であった可能性が高い。
広い道路を渡ると、左手に八王子市立第三小学校の校庭が広がるが、校庭に沿う道路の歩道が車道に比べ異様に広く感じる。よく見ると校庭との境に水路の痕跡が見られる箇所もある。
先程の水路がどうやらこの歩道に続いているようである。
明治の地図で、子安神社付近から流れ出している小川の痕跡がこれだと思われる。

市守神社
 天正十八年(1590)の八王子城落城後、新しい八王子の宿を整備するに当たって、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)を守護神として創建された。のちに天日鷲神(あまのひわしのみこと)も祀り、商売繁盛の神として信仰を集めている。この日は11月の酉の日にあたっていたため、神社の周辺は「お酉さま」で商売繁盛を祈願する人々が溢れ賑わっていた。
市守神社を東に向かうとやがて甲州街道は下り坂になる。曲がりくねって北に向かう古い道は、甲州街道が下り坂に入ってすぐのところが入口になっていた。あまり広いとは言えない道に入ると、西側が一段高くなっていることに気づく。
八王子の都市圏活断層図(この図には立川断層南端の伏在断層が入っているが、それ以外に活断層の表示は無い。)を見ると、この道を境に西側が薄いオレンジ色の下位段丘、東側が水色に着色されている沖積平野に分類されている。
この道は段丘沿いに 一段低いところを通っていることが分かる。

旧甲州街道
この道を抜けると東西に見渡せるやや広い通りに出る。これが旧甲州街道である。
旧甲州街道を東に向かうと、第五中学校の北西角の五差路で現在の甲州街道のバイパスに合流するが、この地点から大和田橋までは、明治のころの甲州街道である。因みに伊能忠敬が測量した地図では、この五差路から大和田橋の北に繋いだ経路が描かれている。現在の甲州街道は、子安神社付近から南多摩高校の南西角にかけ、かなりの急坂になっているが、旧甲州街道は、西から東へ全体に徐々に下がってはいるがほぼ平坦で坂は見られない。

竹の鼻一里塚跡(竹の花公園)
 大和田橋から甲州街道のバイパスを西に向かい、最初の信号から斜め南の道が旧甲州街道で、この道を入った北側に竹の花公園があり、この公園の端には「一里塚跡」の石碑と説明板ある。
 石碑の背面の説明によれば、ここは甲州道中八王子宿の東の入口に位置し、江戸から十二里にあたる。八王子市内には、かつて4か所に一里塚が置かれていたというが、現在でもその場所が明確なのはこの竹の鼻だけである。残る3か所は、並木町付近、荒井付近、小仏峠付近という。

永福稲荷神社
 竹の花公園の西隣りの一段高いところに「永福稲荷神社」がある。八王子市新町の鎮守で祀神は倉稲魂命とされ、古くはこのあたり一帯が竹の鼻と呼ばれていたことから、竹の鼻稲荷神社とも言われていた。境内には大きな庚申塔があり、毎年9月の第1土曜日に例祭の「生姜祭」が行われる。
 この永福稲荷神社は、宝暦6年(1756)8月2日に力士八光山権五郎が再建したもので、八王子城落城と同日に相撲を奉納したと言われている。永福稲荷の本殿横に八王子の生んだ俳人松原庵星布によって、寛永年間に建てられた「日影塚」といわれる「芭蕉句碑「蝶の飛ぶばかり野中の日影かな」がある。

大義寺
 旧甲州街道は、永福稲荷神社の先で直角に南に曲がり、現在の甲州街道に合流するが、最初の信号を西に向かうと、北側に八幡八雲神社の別当である大義寺があり、墓地内には、1814年12月28日没の松原庵星布の墓がある。

八幡八雲神社
 大義時の先の信号を南に向かいと八王子の東の神社として信仰を集める八幡八雲神社がある。この境内には、武蔵七党のひとつ横山党の根拠地がこの付近にあったと伝えられており、横山神社が祀られている。
 八幡神社の東の道を南に向かい、横山町の交差点で甲州街道を過ぎて、野猿街道を南に向かい、最初の信号を西に曲がり、八日町の懇親会場へ向かったが、懇親会場の伊奈喜の開店までまだ1時間ほど時間があったので、懇親会場の先にあった代官屋敷跡に行ってみることにした。

横山宿本陣跡
 八日町交差点の東100mほどの甲州街道の南側、現在の横山町郵便局の地には横山宿の本陣があり、伊能忠敬が七次測量の時にここに宿泊している。
 八王子宿ができた当初の長である長田作左衛門(のち川島作左衛門)は、もと北条氏の家臣で八王子城落城後見を隠していたが、前田利家の家臣川島右近の推挙により起用され、離散していた商人などを呼び集め、大久保長安の指揮に従って八王子の宿場町を構成させた人物と伝えられている。八王子宿の初代名主となり三代にわたり名主を務めたが跡継ぎが途絶えた。作左衛門の後は作左衛門とともに八王子宿の構成に功のあった川口村の川口七郎兵衛が横山町の長として村役を務めた。伊能忠敬の測量日記には、文化8年4月5日(西暦1811年6月25日)に本陣である川口七郎兵衛と脇本陣の鯛屋勘助のところに泊まったことが記録されている。
 明治以降は、明治28年から昭和28年までここに八王子郵便局の本局が置かれ、甲州街道から中央線の陸橋に続く道は郵便局横丁と呼ばれていた。
 参加者はこの横丁が気になったようである。予定のコースを外れるのはこの会の例であるので、南に向かって歩いてみると、周囲のビルの間に黒塀の路地が目に付く。かつて馬乗宿の東側に当たる色町のあったところで、現在も三味線の音が聞こえそうである。この地には似合わない集団が一瞬であるが、異空間に迷い込んだような気分を味わった。

八日市宿
 横山宿と八日市宿には伝馬が置かれ、月ごとに交替していた。八日市宿の宿長は元今川家に仕えていた新野与五右衛門であったが、本陣跡ははっきりしていない。
 この通りには間口が狭いにも関わらず奥行きの長い、かつて宿の敷地が今も残っている。歌手の松任谷由美(荒井由美)の実家である荒井呉服店もそのうちの一軒である。
 八日町の中央辺りに石碑とかつての宿の様子を描いた絵の銅板がある。この絵を見ると、街道の中央には水路があり、釣瓶井戸も見られる。正面には徳利の看板が目に付く徳利亀屋と、その右側に井桁屋の文字が読み取れる。この付近には少し前までイゲタヤという間口は狭いが奥行きの長い敷地の荒物屋さんがあった。

禅東院
 甲州街道の一本北側の通り沿いに禅東院がある。禅東院は滝山の曹洞宗少林寺の末寺で、境内には11面観音を祀る観音堂や、文明17年(1485)の古碑がある。

産千代稲荷神社【大久保石見守長安(おおくぼいわみのかみながやす)陣屋跡】(小門町)
 八日町から小門町に向かって歩くと正面右手に煙突が見える。市内に残る銭湯「松の湯」の煙突である。松の湯の交差点を南に向かうと、道沿いの右手一段高いところに産千代稲荷神社がある。神社の入口には大久保長安陣屋跡の石碑と説明版がある。ここは、大久保長安(1545~1613)が関東十八代官の頭として関東の統治を行うに当たり、八王子においた陣屋跡の一部と考えられている。陣屋の範囲は定かではないが、鬼門の方向に稲荷社を置いたとされており、この稲荷がそれと考えられる。陣屋の北、西、南は土居で囲われていたが、ほとんど削平され、社が置かれたここだけに名残をとどめており、境内には当時からの古井戸も残っている。最近、境内に大久保長安記念館が建設された。

【時の鐘】(天神町 念仏寺)
 産千代稲荷の階段を下り、銭湯「松の湯」の煙突を背に南に向かい踏切を渡ると、正面の道は登り坂になっている。坂を登った交差点を東に向かい300mほどで金剛院と天満宮の交差点に着く。大久保長安陣屋跡はこの金剛院辺りまで広がっていたという。金剛院は、昭和20年の空襲で全体を焼失したが、復興の努力を重ね、平成4年に高野山金剛峯寺から真言宗別格本山の認定を受けた。境内に祀られた寿老尊(寿老人)は、ひげの長い老人で杖を持つ長寿の神、福禄寿は、短身、長頭で、ひげが多く、文字どおり 幸福と禄と寿を授ける神様といわれている。金剛院と道を隔てた角には天満宮が祀られている。この辺り天神町の町名ゆかりの神社にしては小さな社である。天満宮の北側には、江戸時代に建てられた時の鐘の高楼が目を引く。鐘の下には石碑や手描きの説明板があり、元禄十二年(1699年)七月に建立され、戦後まで戦中時を除き毎日十二回、二時間おきに打ち鳴らされ、八王子十五宿周辺まで時を知らせてきた。それまで太陽の動きに合わせて暮らしていた人々に時を知らせる鐘の必要性を感じた八日市宿の名主新野与五郎右衛門の呼びかけで八王子千人同心や宿内十五組及び近郷近在の人たちから集まった浄財で江戸神田鍋町の鋳物師椎名伊予が製作したものとのこと。

 

散策コースの地図(PDF)


子安神社高浜虚子の湧水句碑


子安神社境内


福伝寺


福伝寺


日蓮上人銅像


弘法大師像


一守神社一等水準点の蓋石


一守神社


一里塚跡の碑


松原庵星布の芭蕉句碑



大義寺


八幡八雲神社


八幡八雲神社横山党根拠地


大久保長安記念館


産千代稲荷神社


時鐘碑


時の鐘

 

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