第28回802ちず楽会
日 時 平成30年11月23日(金)勤労感謝の日 12時30分
集合場所 JR八王子駅改札口付近
散策コース:JR八王子駅(バス)→川口橋→延寿院→法蓮寺・八幡神社→宮田遺跡→川口氏居館跡→日枝神社→榎木(バス)→JR八王子駅
春日神社
祭神:天児屋根命(あめのこやねのみこと)
旧格式:無格社
別当寺:長楽寺
例大祭:6月5日
宮ヶ谷戸地区の人々によって祀られた祠。
寛文7年(1667)創建。
延寿院
日蓮宗延壽院は享保年間(1716~35年)に白山指ヶ谷町蓮華寺の塔頭(たっちゅう:山内の一子院)として創立した。
明治維新の中で排仏毀釈(はいぶつきしゃく)と言われる仏教排斥があり、僧侶の還俗(げんぞく)や寺院堂宇・仏像の破壊された。その影響を受け、住職が定まらない時期も長くあったようだが、そのような状況から再興したのが寺井存妙、大雲、明道の各歴代住職だった。特に先代の寺井明道住職が就任した昭和二十七年は戦中の空襲による延焼防止の為の建物引倒しにより、当院の寺宝一切は雑司ヶ谷宝城寺へ疎開していて、昭和三十一年になりようやく旧地白山にお堂を再建した。
それから十年も経たずに白山通り拡幅の為に立退きの話となり、移転先を探さなければならなくなり、昭和四十二年、現在地に移転再興した。
長福寺
当山の開山は、江戸時代の寛永二年(1625年)に没した勝恵法印とも、延宝七年(1679年)に没した頼永法印が創建されたとも伝えられている。
中興智隆和上の寺伝によると、「開山の名及び起立の年代を傳えず、開山を頼永法印といふ。本堂は七間に五間、本寺は宝生寺末、鳥栖山 観音院と号し観音堂別当として存す」とあり、当山の裏山にある鳥栖観音堂の別当寺だった。
観音堂の場所は御堂山、鳥栖山、御堂ヶ谷戸などを経て、現在の地に至る。
安置された仏は行基菩薩作立像の『千手観音菩薩』、通称『鴻之巣観音』と呼ばれている。本尊は丈六座像の『不動明王』で、髙尾山薬王院大山隆玄貫首により『八王子不動尊』と命名され、中興二世俊隆和上によって造立開眼された。
鳥栖観音堂(とすかんのんどう)
創建年代不詳の観音堂で、ある日火災に遭い、観音像が自ら飛び出して鳥の巣(鳥栖)に退避した逸話から「鳥栖観音」と呼ばれるようになった。また、この火災を逃れた逸話により「火防観音」との異名も持ち、江戸の火消たちの信仰も集めることになった。
法連寺
時宗 河口山 宝池院 法蓮寺は鎌倉時代、嘉元2年(1304年)遊行二祖他阿真教上人(たあしんきょうしょうにん)によって開山された。真教上人の頃より修行場として念仏道場が造られ、法蓮寺も河口道場と呼ばれ付近の地名にも道場として残っている。
中世の法蓮寺は地元の豪族である川口氏の庇護のもとにあったと本尊阿弥陀如来の体内銘に記されている。
戦国時代には、甲斐の武田氏の保護を受けており、武田氏滅亡の折には、松姫と共に逃れてきた仁科五郎信盛(盛信と記される場合も有り)の娘、小督姫が身を寄せ、遊行上人の導きで出家し、玉田尼として生きた。
江戸時代には徳川幕府より10石を拝領し、それ以後、法蓮寺は歴代の遊行上人が、しばしば滞在した。
その際は、近隣や宗派を越えた寺院からも多くの人々が集まり、『桑都日記』には文政7年(1824年)の五日間の遊行上人の滞在で数万人に賦算(南無阿弥陀仏と書かれたお札を配る事)したと記されてる。
明治時代になると、新政府と旧幕府軍との間で戦いがあり、八王子千人隊は新政府に恭順したが、一部に反政府の人たちもおり八王子方と呼ばれた。新政府と反政府との戦いで川口村出身の原子剛は戦死、楠正重は帰郷し道場を開き、近隣の若者に剣の指導をしていたようである。
明治25年、勝海舟の題字により原子剛の碑が、大正6年には天然理心流を継いだ小谷田洞水らにより楠正重の碑が建てられた。
十二社(じゅうにそう)遺跡
縄文前期(諸磯式土器が多数散布していたほか、凝灰岩製の石剣が採集された。
宮田遺跡
昭和42年と43年の発掘調査で縄文中期の勝坂式土器や加曾利E式土器が残る住居址が発見された。住居址内から子供を抱いて横座りする母親の土偶が発見され注目された。土偶は現在国立歴史民俗博物館で保管。
調(ととの)井(い)台遺跡 縄文中期(勝坂式、加曾利E式)~縄文後期の集落の存在が想定されている。昭和43年の発掘調査で加曾利E式土器を搬出する住居址を確認。
川口氏居館跡
武蔵七党の1つ西党に属する川口氏の居館跡である。川口氏は、西宗貞の孫の次郎大夫にはじまるとされる。次郎大夫の後、川口氏は八郎太郎景綱、太郎長季、兵庫介幸季と続いている。兵庫介幸季は、応永年間(1394~1427)に長楽寺に薬師如来像を寄進したと伝えられる。幸季以降の川口氏の動向は不詳である。
日枝神社
祭神は滋賀県日吉大社の西本宮を奉斎する。創建の年代は詳かでないが、嘉元(1303〜1305)以前にさかのぼる。(河口山法蓮寺縁起による)天文四年(1535)社殿再建の伝承がある。
社地の南方は、弥生時代の住居跡と推定され、古くからこの地が住民の信仰の場であったものと考えられる。
古くは村社として、その後川口町の鎮守として人々の尊祟厚く、昭和44年(1969)に社殿を造営し、氏子祟敬者によって祭祀が行われている。
|
|
散策コースの地図(PDF)

句碑

川口片井戸公園

春日神社鳥居

春日神社

春日神社内部

夷大黒

農家の屋門

台地南向き斜面の畑
 南向き斜面の畑

路傍の石仏

庚申塔

長福寺

長福寺(白萩堂)

長福寺からの眺め

長福寺からの眺め

長福寺からの眺め

観音堂(鳥栖観音)

長福寺境内

長福寺

法連寺山門

敷石

法連寺本堂

法連寺山門

集められた石仏

法連寺

集められた石塔

集められた石塔と石仏

境内の碑

八幡神社

八幡神社

下川口の農家

下川口の農家

下川口の農家

山王橋

川口川

日枝神社

天神社

日枝神社

川口氏館址の入口

川口兵庫介館址の碑

調井台地の上面 |
|