高月・滝山(JR八王子~高月・滝山)2018 05 13

第26回802ちず楽会
日時:平成30年5月13日(日)12時10分 
集合場所:JR八王子駅改札
散策コース:加住小学校→大乗寺→最教寺→駒形神社→圓通寺→高月城址→八幡神社→不動院→滝集落→滝山城跡→滝山城址入口バス停→JR八王子駅

大乗寺
本尊:大蔓茶羅御本尊(立正大師日蓮聖人像)
開創:天王五年(一五七七)
この寺は小石川本郷駒込に創立、以来昭和の大戦にて焼失、約三百七十年の歴史に終止符を打って昭和四十九年(一九七四)当地に移る。
寺宝:焚鐘 天文元年(一七三六)七月二日鋳物師森大道、鍾の下部の縁をかこむ形で十二支が鋳造されており珍しい。
鬼子母神の碑 入口にある・鬼子母神の碑は、鬼の字の頭の点がない・鬼子母神の碑である。

最教寺
縁起:日蓮宗総本山身延山久遠寺第二十七世通心院日境法主の弟子、仙能院日崇上人が上野池之端にその基を開いた。
その当時、徳川二代秀忠の息女千姫が病脳にあい、密かに日崇上人の祈祷を受けた。その結果全快し、秀忠は、押上の二千坪余の土地に七堂伽藍を建立し、これを寄進した。
その後、二度の大地震により全山焼失し、杉並の高円寺を経て当地に昭和四十年(一九六五)移ってきた。
本尊:久遠実成の本師釈迦牟尼仏
寺宝:稗迦牟尼仏立像、宗祖日蓮聖人座像、四天王像、大焚天王、帝釈天像、鬼子母神像 毘沙問像、位牌堂、一塔両尊四師
開山:仙能院日崇上人
開創:徳川二代将軍秀忠の頃

駒形神社
不動と駒形の二つの名前を持つ神様
滝集落の西端、高月本村に近い坂の下にある神社。祭神は大己貴命(おおなむちのみこと、別名・大国主命)のことを年配の者は「オミヤ」または「オフドウサマ」と呼ぶことが多く、正確な名称である駒形神社と呼ぶ者は少なかった。
建立年代は不詳であるが、棟札で調べると寛文三年(一六六三)不動明王社。
約百年を経た宝暦十二年(一七六二)年の札には駒形大明神と記されており、仏教の本地垂迹思想による神社である。
この持社の本地は不動で、身の丈八寸といわれる。除地五畝。
駒形神社は農耕や牧馬の神である。宮下、留所方面から高月本村へ、また滝集落に出る三又の場所にあり、老杉古木におおわれている。
駒形神社のそばでだるまを製造している。多摩川北岸の拝島大師のだるま市や、その他地方の市にも出荷する。

天王様
文化十一年(一八一四)六月十五日衆病悉徐、心身安楽、増長福寿を祈願として、「駒形神社」境内に勧請された。

ヤクジン(厄神)様
通称「ヤクジン」の地名を持つ区域の水田の端に、数坪の「イシマ」の畑ともつかぬ土地があり、さらに昔は祠が建っていた。 太平洋戦争中食料増産のため、駒形神社境内に祀り換えてその跡は水田になった。十一月八日には、餅またはボタモチなどのご馳走を作った。

山王様
昔、タカアラ(屋号)の先祖が大洪水の直後、多摩川と秋川が合流するあたりお河原で人形のようなものを二つ拾い、持ち帰り子どもに玩具として与えた。ところが、その子どもがまもなく高熱を出し三日三晩苦しんだ。
祈祷師にみて貰ったところ「上流の山王様が洪水で流され、滝の河原で拾われのは、二十数体ある祭神の一部である、他の流された祭神がその付近に埋まって苦しんでいるからそれを掘り出して祀れば子どもの熱は下がる」と告げられた。
早速河原を掘り探したところ、前に拾った二体を含めて粗削りのコケシのような二十数体と、猿その他の動物の焼物等で一部分破損したものが見つかった。
これを屋敷の端に祀ったのが滝の山王さまのはじまりと伝えられる。これらは、本来山王の随身で、この話を伝え聞いた上流の洪水で流された山王様の神官は一風変わった人で、「それならばこれを一緒に祀れ」と言って山王のご神体を持って来てくれたと伝えられている。大昔は更に上流の檜原あたりで祀られていたのが西秋留あたりに流されて着いたのが再度流されて滝に来たという。
また、この神様は人が集まり賑わうのを嫌う神様で、前の土地は人が集まり賑わうのを嫌う神様で、前の土地は祭日にあまり賑わうので洪水にかこつけて逃げたとも言う。農耕馬が多く飼育されていた頃は、馬の神様として関係者に崇拝され、元日の朝、人馬で参拝する習慣があった。

圓通寺
慧日山観音院圓通寺は、高月城下にある天台宗の古刹である。
寺伝によると、醍醐天皇の御代延喜三年(九〇三)に叡山延暦寺西堂の法祖恵亮尊者大楽大師従弟讃海阿闍梨の開祖と伝えられている。
もとは武相二十八ケ寺の本寺として古御朱印観音領百石、外に拝島村大日領二石を兼帯、境内三万坪余を有した大寺院で、天正年間(一五七三~九二)高槻城主大石氏の深い帰依を受け、現在の地に定住した。
終戦直前の昭和二十年七月、米軍艦載機の爆撃で堂塔伽藍一体操藍一初を焼失、現在の伽藍は現住職第三十七世光亮代により完成したのである。
本尊は、秘仏聖観音菩薩(木刻座像、二尺三寸)は平安時代定長の柞である。
本堂内陣の御厨子内には、当寺奥の院の地蔵、通称「峯之地蔵尊」と呼ばれ親しまれている延命地蔵尊の分身(磐座に白蛇の彫刻がある)が安置されている。

かな穴
圓通寺の東側に南の山にかけて古道がある。その山道にかかる前の右手にぽっかりと穴があいた入口があった。
この入口を西の方に入っていくと一長々と穴がつづいていて、壁の面には一鍬一鍬の掘ったときの跡を残している。
突き当たったところが圓通寺の裏手辺りと思われる。
この穴は一般に「かな穴」と呼ばれているが、なんの目的で掘られたものか、また「かな」とはなんであるかさっぱりわからない。
郷土研究家の三矯氏の解釈によると、高月城の抜け穴と考えたい。しかし穴が行き止まりである。「かな」を金に置きかえれば金を隠したか、金鉱を探した場所とも考えられるが、実は城の抜け穴道で虎口に接続しない前に城は廃城(滝出に移った)になり、この穴もここで終わってしまった。城の虎口につながれば一朝のとき城兵の逃げ道となり、また忍びの者の通行路になったであろう。虎口を逃れることが叶う道穴であったのではなかろうか。

十二曲りと峰の地蔵
かな穴の入口のところから南の山に「十二曲りの山道」を登ると頂上に着き、宮下・留所の一部が見えるが、もともとこの道は高月圓通寺を中心とした修験道の入達の道であった。
頂上近くに木製の鳥居があり、二、三の古碑と地麓堂がある。これが圓通寺の奥の院で、峯の地蔵さまと呼ばれ載しまれている「廷命地蔵尊が祀られている。平安時代智證大師開眼の尊像と伝えられ、関東一円に講中信者があり参詣の人が絶えなかった。

加住小学校高月分校
圓通寺の前に加住小学校高月分校があって、校門は赤煉瓦を積み上げた角柱が立てられていたが、圓通寺焼失の空襲で機関砲の弾丸が柱を貫通した。その痕跡が残されていたが現在はない。裏に九頭龍社が祀られている。

高月村の昔
この村は丹木、留所、宮下という谷治庄の三ケ村より山を越えて、北の方の秋川と多摩川の端にて、この村附きの地にて秋川は多摩川へ落ち入る。秋川は東より始まり、この地より西の方桧原村まで秋川両岸の村は凡そ二十ケ村程あり。その地を阿伎留郷と号す。
さらば、本命は阿伎留川なるを、いまは秋川と称するなり。高月と書くは中古以来のことなる由。昔は高築とも書きたる由なれど、往古高槻村と書きたること本来の文字なり、その謂われは、当村の鎮守八幡宮の社地に槻の大なる社本一株ありし、これを村名に称したと云う。

丘嘘(高月城跡)
村内の東寄りに古城あり。西の方は秋川に接し、東は滝山つづきなれども、谷間をへだて弧山なる城跡にて、高さ三十四、五間余。北は多摩川の流水下をめぐらして、東北は武蔵野の平原を展望する絶景の地なり。山上に堀切二、三ケ所ありて、平地のところは畑となし、東北に多摩川の方に差し出たるは悉く松山なり。その崖下は円通寺境内となり、堂舎は山の麓に接せり。いまは高月村の地なれども、古文書並びに記録などに高月城と号していた。この地は大石氏が代々の居城にて、准后道興法親王もこの地に来たり給いて、武蔵野を膽望し、絶景と賞せられ、詩歌などを詠ぜられしは当城のことなり。

八幡神社
村内の鎮守。神体木立像。本社。拝殿。雑木の森あり。同所興善院持。この社地に往古は槻の古木ありて、高く聳えたる社木ゆえ、土人村名に唱え来たれる由。それより高槻村とは号せしという。また、大石信濃守顕重は長禄二年(一四五八)三月高槻に移り居住すと。かの家のことを記せし書に見えたり。されば、長禄の頃より高槻村書きたるにや。その古木は中古までありけるが、村内の圓通寺を造営の砌に伐採。この槻一本にて本堂、庫裏に至るまで再建の材に用いたと云う。社内の地に古碑一基あり、薄い板石、長さ二尺余。その下「貞和五(一三四九)壬六月」とあり。弥陀八幡を祀り、本地としてこの碑石を造立せしものなり。

不動院
正保三年(一六四六)開基。新編武蔵風土記稿には、不動沢高月村の界にありと記されており、現在の駒形神社の境内にあった。神仏同体説等により、寺をあてた後に境内に鎮守を奉り、後に現在地に移転した寺である。
無住であるが本尊の不動は一尺五寸の座像。高月本村の圓通寺持ち。
地蔵さま
不動院の入口に小さな六地蔵と並んで建つ。「不動院の住職として勤めていた僧が何かの不都合なことを犯し処刑された。この僧の霊を慰めるために信心深い滝の女衆が建てたのがこの地蔵様である。文久四年(一八六一)為宥同菩提 明治三年(一八八〇)八月 建女念仏講中と一番端に建つ像。
他の石仏
①青石塔婆・・不動院保管 正和四年(一三一三)の文字あり。
②六字名号塔・・不動院入口、南無阿弥陀仏、寛政九年(一七九七)、寒念仏供養塔
③念仏供養塔・・不動院入口、念仏供養、寛政九年(一七九七)
④念仏供養塔・・不動院入口、念仏供養、文政九年(一八二六)
⑤馬頭観音・・不動院入口、弘化五年(一八四八)

滝山というところ
滝山街道や、谷治川をちょっと離れて、丘陵の北の多摩川に近いところにある。
この辺が滝の部落である。滝とは高月町の一部で、高月と一緒にされることもあるし、また単独でいわれることもある。この滝は、南の山の上の滝山城および南麓の丹木と切り離して考えることが出来ない。丹木はたきの、滝はたんぎのなまり合いのものといわれているからである。その地名の語源は奈良にあるという。
丹来の北の丘は、滝からは南の山の上にあるから滝山城で、城のある郷村は古くは滝山郷であるわけだ。村内に滝らしいものはなく、水の落ちる滝とは縁はないようだ。

働き者で純朴な気質
滝の集藩は南の山が高いので、日照り時間が短い割に朝の日当たちが早い。
その関係もあり村の人は早起きで、また働き者が多い。村人の気質は純朴で村に残る風俗行事などをよく守り保存しつづけている。
もう一つの特徴は、滝の村より青年男女の結婚の年齢が若いことである。
代々若くして妻帯するので一戸で三組の夫婦(三夫婦と呼ばれる)の家庭が多い。早起きで、早く結婚するのは、一日一日暮れが早い半日村であるから急ぐのだ・・・などと悪口皮肉ともつかぬ冗談をいう人があるが、古い習慣を村内一致して残してゆく心情は実に貴く頭がさがる想いがする。

桑の老木
滝には沢井という姓の家が多いが、沢井某家は、沢井将監の子孫が、代々名主を務めたといわれる一族の旧家で、その庭先の路辺に一本の桑の老木があり、このクワは、樹齢四〇〇年と推定され、太いコブコブの幹から枝をたれている。・・・八王子を「桑都」と呼ぶが、その元祖ここにありといいたい。市の天然記念物にも指定されている。
北条氏輝は産業開発にも意をそそぎ、城下の民に桑を植えさせ蚕を飼わせ、糸をつむいで布を織らせたといわれるが、その名残りをとどめる一株である。
当時は山に自生する桑、あるいは桑に類する木の葉を喰いながら育って繭を作る柞蚕を奨励したのではないだろうか。畑に埴生させる桑に近い十文字とか柳駄 (やなぎだ)とかの品種で、収量は少ないが病害や風水害などに強い原生種であったろう。この桑の芽木(めぎ)もその一種である。

ホウドブさま
これを邸内に祀る家〈シモエ・シモウエ)で、何代も前からの伝えによれば、病で倒れた僧をこの家で長い間介抱したが、手厚い看護の甲斐なく亡くなった。臨終の時この僧は「お札に癪(おこり)と耳の病を治す力を授ける」と耳病治療の祈願方法などを教えて息を引きとったと言う。
ここの墓碑に「宝蔵院権大僧都海光る法印」延宝二年(一六七四)四月没と記されている。この年月よき二十八年程前にあたる不動明王社造立の棟札に記されている「宝蔵院海光」と同一人物と考える。並んで建つ山伏を刻んだ石仏から想像すると、比較的高い僧であったことが窺える。
供えられた竹筒に井戸水を入れて帰り、こよりでこの水を耳につければ耳の病気はなおるという伝えがあった。
最盛期にはかなり広範囲から信者が集まっていたが現在は訪れる人が少なくなっている。

滝山の切岸
滝山城跡の西に広がる切岸は高月城址との中間にあり、両域」に守られた堅固なものであったかも知れない。今後の課題である。


龍源寺
宗派 曹洞宗通幻派
本尊 蒋迦如来(立像)
寺宝 板碑(市文化財)
妙優観音
(家内安全、学業成就)
富士浅間神社
(当寺から途歩十分)
関山 桂巌暁敵大和尚
開基 織田信長の巨大沢将監
関創 四百八十年程前
天正年間(一五七三~一五九二)に織田信長の臣、大沢将監安政が開基となり創建、慶安二年(一六四九)境内鎮守神明社へ御朱印八石五斗を拝受する。この付近を大沢村と住人は古くから称した。
観音さまは、優しい顔をして領なずいておられるような観音さまで、里の人は「縁結び観音」と呼んで、親しみ尊んでいる。
境内には、文政七年(一八二四)寺本宗宝尊派銘の「理趣塔」なるものがあり、地下には石経(小石に経文を書いたもの)が埋まっているといわれている。
月待板碑
「武蔵名勝図会」によると、「この板碑は挿絵が描かれており文安五年(一四四八)の銘がある月待板碑の代表例として高く評価されている」
昭和三十九年(一九六四)市文化財に指定され、本物は本堂内に安置されているが、八王子市郷土資料館に精巧なレプリカが展示されている。
高さ一三〇cm、幅三四㎝、厚さ四cmを数え、身部を囲む枠は下部のみ省略されている。
阿弥陀三尊を焚字で表した月待供養碑。特例の月齢の日に人々が集まって飲食を共にし、月の出を待ち拝む民間信仰の碑である。
次の銘を刻む
面善円浄如満月威光如千月日
月待人数汁三人敬白
文安五季八月汁三日
谷慈郷代屋村住人
殻耳如天鼓倶
趨羅故我頂札弥陀尊
「面善円浄云々」は十二来という経典の一節であり「故我頂礼弥陀尊」はその結びである。月待の板碑らしい引用はなかなか考えたものだ。
特に「谷慈郷代屋村住人」の二十三人が、月待供養の行事をこの地で行ったことが、明示されていることである。直接、中世史料になりにくい中世部落を明記した武蔵板碑の唯一例である。
谷慈郷とは、当時谷地川の流域全般の呼称であった。

江戸風水の冨士浅間神社
祭神 木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
「新編武蔵風土記稿」によると、創建は六百余年前といわれるその間二百余年間は社殿廃滅した。曹洞宗龍源寺の守護神社で寺の南の山にあり甲府の富士のお山、が良く見えたのでその年の吉兆を、「早春の富士のお山の姿」で占うなどという風情のある言い伝えがある。
社徳は、火防・安産・開運等霊あらたかである。
なお、昭和四十七年(一九七二)再建する。
風水から見る東京の陰穴

富士浅間神社
五百余年前太田道濯が江戸城を築いた際に、江戸城に気を送り込むために作ったと考えられる。風水には陰と陽の理論があり、龍穴には、陰穴と陽穴の二つがある。
龍のカを完援かつ最高に活用するには、二つの龍穴を使うことが最良の道である。穴を掘ることではなく、良い気を呼び込み、逃げないように工夫することである。そのために神
聖な場所として神社仏関などを建てるのが良いとされている。
仮に東京の陽穴が川越の喜多院だとすると、風水理論にかなったところは加住町の富士浅間神社であると推測する。今でも浅間神社の境内から東京の新宿高層ビルが見える。
「昔は天気の良い日には東京湾が見えたのではないか」といわれている。
したがって浅間神社から江戸城に気を送り込むことも可能だった。

勝手神社間
祭神 押武日之命(おしたけびのみこと)
社宝懸仏(かけぼとけ〉
大石氏の滝山城時代、武州御巌神社の武神である勝手明神社を分祀した口大石重信が貞和五年(一三四九)懸仏一面を奉納、天文七年(一五三八)社殿を再建、「勝手明神」と称した。明治初年「勝手神社」と改称、現在の社殿は昭和四十二年(一九六七)の造営。
社徳は、きわめて霊験あらたかで、五穀豊穣、万民安寧のほか、特に女ご衆に効験があり、お勝手を預かる、女ご衆の味方になって下さるから「お勝手さま」と呼ばれたともいわれた。
境内にはお蚕さまの守り神である蚕神社がある。
お宝 懸仏圏
ここに、貞和五年(一三四九)記年銘の懸仏(かけぼとけ)が保存されていた。
懸仏は、本地垂迩説(仏が人間を救うため神となってこの世に現われるという説)の影響で、神鏡に仏像等を取り付けたものをいう。
勝手神社の懸仏は、銅製、鍍金(表面のみ)直径二二㎝の鏡板の中央に、蓮華座に坐す高さ一〇㎝の薬師如来一尊を配置し、台座の左右に一対の宝瓶を配置。裏面に「武州多西郡留所村金峰山之御正体、貞和五年季巳年己丑七月五日敬白若桜守真」と銘記されている。
懸仏は、昭和三十一年三月都重宝に指定され、現在は八王子市郷土資料館に寄託されている。

宝印寺
宗派 天台宗高月円通寺末
本尊 観音菩薩、境内に火防観音関山僧晃円上人、
開基 中興塚原治左衛門
関創 四百八十年程前
勝手神社の別当寺であった。現在の本堂、観音堂は江戸末期の建築である。

中興開基塚原治左衛門
創建年代は不明であるが天王十九年(一五九一)甲州からこの地に移り中興再建したと伝えられている。
境内に塚原氏の宝優印搭がある。

火防の観音堂
観音堂は「火防観音」として知られており、慶安二年(一六四九)観音堂領内御朱印五石を拝受している。
本尊正観世音
行基作といわれている。

男石女石
昔話に、留所村の宝印寺の裏山に、男石が舵られ、さらに、山ひとつ北にいった妙見社に、女石が納められている話はあるが境内には残念ながら見つけられなかった。

青木魯平の碑
青木魯平(ろへい)は、加住地区の近代教育に寄与した人物である。
明治六年(一八七一ニ)留所(とどころ)学舎の教員となり、軒ごとに歩きまわり地区の人々に勉強することを勧めたという。また、留所学舎の支校として戸吹・宮下村を対象に、無量寺で授業を始めた。これが、後に明化学校となる。

加住地区の近代教育
明治維新後、政府は「国民皆学」を目ざし明治五年(一八七二)の「学制」を公布し、学区、学校、教員等規制した。これにともない、当時神奈川県下であった八王子五宿と周辺村落で三十四の学校が誕生した。
当時、加住地区に五つの「私塾」または「寺子屋」があったが、明治六年(一八七三)に留所学舎(仮学舎宝印寺、翌年金蔵寺に移転、留所学校と改称)、明化学舎が無量寺、化育学舎が高月の円通寺の三ケ所で授業を始めた。
(参考)留所学校の概要
新築 明治十三年(一八八〇)五月
先生 三入寿三郎、沢井蘇之次郎、青木タケ、日暮英也他十六名
生徒 一学級五十名位一、二年
二学級五十名位三、四年
三学級五十名位五、六年
四学級三十名位高等一、二年
教科書 全国統一の国定教科書
国語、算数、地理、理科、図面、書き方
地理 尋常科は日本地図による、高等科は世界地図による。図面は四年までクレヨン
授業、午前八時より午後二~三時
弁当 サツマ芋、小麦のたらし焼等
通学 徒歩、草履
夏休 八月いっぱい
月謝 高等科二十五銭
通学地域 留所、大沢、矢野、丹木、梅坪、八日市、滝山、横山、左入、尾崎、馬場谷戸、滝、高月は五年生より

 

散策コースの地図(PDF)


大乗寺


大乗寺鐘楼


大乗寺観世音菩薩


大乗寺経塚


大乗寺鬼子母神


大乗寺から高月城への道


十二曲がりの道


高月城跡入口


高月城跡道


曲輪跡



高月尻本丸跡


高月尻本丸広場


高月尻本丸跡


土塁跡


土塁跡


城内の道


曲輪跡


高月城下の水田


高月城入口の神社


常夜灯と供養塔


秋川


八幡神社


八幡神社


圓通寺


圓通寺六地蔵


圓通寺本堂


空襲で焼けた木彫りの狛犬


大師像


高月駒形神社


高月駒形神社


高月駒形神社


不動院


不動院前の六地蔵


供養塔


馬頭観音


不動院


不動院


石仏


高月のクワ


高月のクワの碑


供養塔


滝集落辻の地蔵と庚申塔


滝山城址金刀比羅神社の石段


滝山城址掘割内の道


滝山城址休憩所

 

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