船田丘陵(JR高尾~元八王子)2018 03 04

第25回802ちず楽会
開催日時:平成30年3月4日(日)集合時間:13:00(午後1時)
集合場所:JR西八王子駅改札付近
コース:JR西八王子駅→龍泉寺→船田遺跡→長泉寺→出羽山砦跡→八王子城城下町(裏宿、八幡宿)→日吉神社→下原刀鍛刀の碑→横川楳子邸→西八王子駅付近(懇親会)

メタセコイア化石
メタセコイアは新生代第三紀 (6,500万年前~200万年前)に栄えていた植物。化石しか発見 されていなかったため、絶滅種とされていたが、1946年、中国四川省で現存種が発見され、「生きた化石」として有名になった。八王子では浅川の河川敷でシルト層に埋もれ炭化した化石が見られる。

龍泉寺
永禄元(1558)年、滝山城の城主だった北条氏照は、方誉来給を招聘して寺を創建した。
その後、火災に遭い焼失したため方誉来給が再建した。
江戸時代、八王子千人同心の菩提寺になっていたが、同心との間にトラブルがあり、幕末期には衰微していったが、明治末期になり、再建のめどが立った。
八王子三十三観音霊場第13番札所の由来となっている聖観世音菩薩は、「しもの世話にならずにぽっくりと極楽に往生できる」というご利益があるとされ、「ぽっくり寺」の異名をとっている。

吉祥院
一乗山吉祥院久松寺は、本尊大日如来を安置せる。真言宗智山派に属する密門の寺院。
草創は応永年間、開基は頼源法印、その後、慶長7年(1602)宝樹房行盛法印の中興との寺伝あり。
累代八王子市日吉町にあったが、享保15年4月と明治22年冬の火災、更に昭和20年8月2日、八王子市大空襲の火災等に遭い、寺門は振わなかったが、戦後、寺門を挙げて現在地に移転しし再興をはかっている。

船田石器時代遺跡 八王子市ホームページ「八王子市のプロフィール」より
昭和2年(1927年)の発掘調査で発見された、縄文時代後期の敷石住居跡です。発見された住居跡は1軒のみでしたが、当時としては大変貴重であったために翌年に国史跡に指定されました。
住居は直径5㍍ほどの範囲に扁平な川原石を敷いたもので、中央に直径60㌢ほどの炉があり、土器が埋められていました。現在は長房児童館北側に埋め戻されていますが、広場として約1,200平方㍍が保存され、東側に石碑が建っています。

鈴木正三(しょうざん)の墓(54.2.1)「ふるさと八王子」八王子市発行(昭和55年2月)より
日本文学史をひも解いてみる、近世初頭の、西鶴が「好色一代男」を著わす少し前に、「仮名草子」と呼ばれる文芸形式が登場する。その代表的作家のひとりとして「因果物語」「二人比丘尼」などを書いた鈴木正三(別号、石平(せきへい)道人(どうじん))があげられるが、実は、その墓が市内長房町にある。
一体、正三はどのような人物なのだろうか―。
正三は、天正七年(一五七九年)三河国の代々徳川家に仕える武家に生まれた。自身も、関ヶ原合戦や大阪冬・夏の陣などに従軍して功を立てたといわれるが、元和六年(一六二〇年)に突然、幼少からの宿題を果たすべく出家してしまう。時に四十五歳。以後七十七歳で没するまで、独自の宗風を開拓しながら諸国を巡歴し布教を続けたといわれる。
その思想は、一宗一派に属さない自由な立場で、実際の生活に役立つことを目指していた。「因果物語」などでは、正三が諸国遍歴の間に見分した事実談を、仏教の因果説と結びつけ、かな書きで庶民にわかりやすく説いている。
では、正三道人の墓が、どうして八王子にあるのだろうか。
下長房の豪族井上出羽が小庵を建て、正三を招いて教化を受けたと伝えられている。庵は明治初年に取り壊され、庵内にまつられていた正三道人とその弟子恵中の座像は、近くの長泉寺に移された。墓は庵の山(多摩御陵総門の右手)にあったが、昭和二年、多摩御陵造営にあたって移転を余儀なくされた。
今は、長泉寺の東、冬木立の中。近年、ふたたびその足跡が注目を集めている中で、その墓の閑寂なたたずまいはあたかも正三道人の無師独悟の生涯を示しているかのようである。

【井上幸太郎:「元八王子の歴史」有峰書店(昭和53年5月)より】
※ ( )の数字は皇紀年→西暦への読み替えは-660年
元八王子村誌
元八王子村として一つの合併村になる前の区分した村は全体で七カ村、元八王子村、横川村、上一分方村、下一分方村、大楽寺村、二分方村で川村、これを区分していた当時のもの『参照多摩文化、元八王子の研究から』武蔵国多摩郡元八王子村本村は多摩郡横山圧由井郷に属して土方村と呼ぶ。古く宗関寺鐘銘に神宮寺村と記してあるところから、今でも「ジゴジ」と称す。また八王子権現から八王子村と称した。しかし短い聞ながら、この村の繁栄も落城から一挙に衰退して一寒村になった。
北条氏照の家臣長田作左エ門戦傷の身を山家に療養していた折、前田利家の家臣川島右近の伯父に当るので、右近、利家に嘆願し助命願って利家も作左エ門に人民離散せぬよう、また戦災の復興をこの人に全幅の信頼のもとその職につかせることにした。
村の復興に対して、当地方の情況に精通せる作左エ門を起用した利家は、左の書を奉書に記してこれに渡す。
当時三宿之町人呼出如前々本屋敷に有付市以下商売仕侯様に可申触者也
天正十八年七月七日
利家
長田作左エ門殿
ここで作左エ門弓矢を捨てて現在の八王子の地に新しい町を選定し、城下三宿の町人に移転させ、更に四方に離散せる町民野武士を集めて、旧名の横山宿から八日市八幡宿と市場を聞いてその開拓に努めた。このため元八王子村は農家だけが残り、新しい職を求め雄飛をいだいた人々は、新市場へぞくぞく動き出した。更に徳川江戸城開くに及んで、その家臣勘定奉行大久保石見守長安及び代官口数氏を八王子に居住して近郷を管理した。元禄十二年(二三五九)後世に名を残した江川太郎左エ門もその代官としてこの地を支配した。
この時代、この村は滝原、八幡、峰ヶ谷、中井、道場根、梶原谷、川原ヶ谷、原ヶ谷、鍛冶屋村、打出鳥居場、前村、御霊谷、中宿の十四部落の村落であった。
やがて天下は大政奉還となり明治元年六月一日この地方は韮山県の所管となり、周年十二月二十八日改めて神奈川県の所管になる。更に明治二十六年三月その所管が三多摩三郡全体が東京府に移管された。
明治九年の一月一日の調査によると、戸数 二百十一戸 人口 九百十七人

(元八王子)
村里
太夫坂(たゆう)
元八王子から長房に通じる道の途中にある。現在殆んど通行できない。旧相州古道の坂で神道を説き、この村に正三道人、俗称九太夫が長く住んでいたので、その名が太夫坂に、また一説には城下町時代遊女が江戸に売られていく姿を写してこの名称が出たともいう。

石神(上)坂
元八王子町一丁目を過ぎて右側に日枝三王社があるが、この辺から小坂になる。この附近背横山口という城戸あり。この辺に北条の重臣で石上新右衛門道善という人の屋敷があって、その坂の名がいつの時代か神と石が変ったのではと思う。この外小坂あるが無名。

古道
下長一房村の大夫坂より当村八幡宮のすぐ下の方へ出て、それより八幡宮の社地より西方を通り、隣村の川村の西を通り、下恩方の河原宿へ出る道。これを古道という。

八幡宮
建久二年(一八五一)六月梶原景時これを勧請し、寛正四年(二一二三)十月および文明十七年(一二四五)十月梶原家景および梶原賢孝がこれを再興したという。
この神社の別当寺たる西明寺は鎌倉末期建立の慈根寺の後身であり、その創建は室町時代であったという。天正十九年十一月に御朱印十石を賜わり、明治六年十二月郷社に列せられる。祭日は四月十五日。なお御神木の大杉は通称梶原杉といい、周囲一丈五尺五寸、高さ十二丈、地上三丈の所より枝条を出し梢下方に垂下す。樹齢約五百四十年枝葉繁茂し、樹相雄大なり。一に逆さ杉ともいい、建久年間梶原景時の植えたるものなりという。しかし数年前長い生涯を終わる。

梶原谷(やつ)
梶原景時居住の地にして村の中程より北の方の山間部。

石見屋敷
八幡神社より東にして、大久保石見守屋敷跡。庭石などありという。

原ヶ谷(やつ)
八幡森の下にして、千人頭原刑部の屋敷跡。


刀剣鍛冶
八幡神社の東側に鍛治屋村と呼ぶ所に山本という、代々刀剣鍛冶を業とし、特に天正四年北条氏の築城になってから一層信任厚く万剣を鍛える。先祖は周重といい相州五郎正宗の伝で北条滅亡後、徳川幕府の世となってもその高度の技術が評価された。旧領はそのままとなり、徳川への忠誠心強く、日光東照宮などへの太万の奉納はこの家が選ばれたという。家康より苗字帯刀を許され、御紋付茶色の御羽織を拝領したという。

大善寺跡・極楽寺跡
梶原谷にあり、氏照居城前滝山城下梅坪村にありも、城山落城とともに兵火のなすままとなり、天正十九年十二月徳川家康八王子へ科築を命ず。

妙観寺(元八王子町三の三、一五五番地)
真言宗智山派、この地を御霊谷戸という。
霊慶山と号し本尊は阿弥陀如来。応仁二年(二一二八)妙挙法印の創建といわれ、古くは明観寺ともいった。昭和十六年二月火災にあい、現在の建築はその年の十二月に再建されたもの。

西光院(元八王子町二の一、四五五番地)
真言宗智山派。金峰山安楽寺と号し、本尊は聖観音聞山西光法印が天文五年(二一九六)創建したもの。

市史跡 武蔵太郎安国の墓 (元八王子町一、八五九番地) 
安国は刀工武州下原鍛冶の一円である。山本金左エ門広重の子で、はじめ山本藤太広重のちに安田と名のった。貞享二年(二三四五)武蔵刀匠大村加卜に師事し武蔵太郎の名を賜ったといわれる。享保四年(二三七九)にはお浜御殿において吉宗将軍の上覧鍛冶をつとめ白銀十枚を賜ったという。のち山本卜宥入道と号し、享保十五年〈二三九〇)八十一歳で逝去した。
下原鍛治中輿の祖といわれた名工である。

月夜峰旗塚
横川村の境界まであり、芝生の地にして八王子城を望み小仏、高尾山、秩父連山等居ながらにして眺望絶佳、そして月を賞せしに、この地をおいて他にない所からこの地名が生じたという。北条氏照愛好の地であったともいう。この付近に旗塚と称するものあり、落城の日城へ向いて丘陵を利して一㍍強のもの間隔八・九㍍置きに塚あり、これを利して寄手の陣営を設けたるもの称して旗塚という。今その姿なし。

滝不動
元八王子一区から城山川を渡り、月夜みね丘陵の途中に坂中心地に四角四面の不動堂がある。この付近滝、が落ちて美しい水を村民ののどをうるほしていたので、雨ごいにはこの水を神仏に上げてお祈りしたものである。不動様の外に稲荷と天満宮の二つの石詞がある。この前の道を不動坂といぅ。北条氏照居城以前のものと思う歴史あり、永禄十二年(二二二〉廿里合戦のおり、滝山勢が氏照の老臣横地監物ら三百余騎雑兵二千余人がこの不動坂を通過したとあり、然れりとすれば随分古い事になる。滝の不動様は女性であるという。

七面堂
元八王子小学校南、通称出口は慈根寺部落の出入口であるが、氏照在城当時は追手脇道、或いは大手口と呼んでいたという。このすぐ脇の小高いところに、権現造りの堂の中に安置されているのが本尊の七面天女、白哲明眉の慈顔麗しく、稍(やや)面長の美人にて木彫極彩色、高さ八寸八分、肩幅四寸四分、底部八寸五分、台座壇とも一尺四寸四分、右手掌に宝珠を載せている。
元禄初年、江戸の仏師加賀屋清兵衛の作であろう。また一説には日本橋在住仏師長谷川善兵衛と記されている。いずれにしても元禄年間の作には間違いない。昭和五十二年夏本堂の屋根の改修を行なった。

西明寺(明治初年廃寺)
慈根山と号し八幡宮別当、新義真言宗大幡山宝生寺末にして御朱印社領十石、境内約二町歩余。

元八王子の灯籠
一区通称出口に立派な灯籠がある。数年前交通はげしく現在地に移転したもの。郷社八王子神社及び郷社八幡神社へ道しるべを兼ねて、地元の人達の熱意により出来たもので、大正四年十一月御大典紀念と記してあり、高さ台石からでは四㍍にも達しようとするもの。勿論この時代ともなれば、電灯もどうにか引けるようになったろうから常夜灯でもないだろう。

忠魂碑
元八王子小学校すぐ東に、この碑が建っている。交通はげしく立ち止って拝むにはあわただしいが、立派な自然石に乃木希典大将の真蹟謹写し、それを彫刻してある。達筆な字は大将の風格をよくあらわして、この碑を引き立てている。この碑の裏に明治二十七、八年日清の戦役忠死者。明治三十七、八年日露戦役忠死者の慰霊で、昭和七年四月建立したもの。この建設発起は南多摩郡元八王子村と帝国在郷軍人会元八王子分会と記してある。もう一つの殉国の碑は昭和二十八年五月十日建立した。これは支那事変、大東亜戦争戦前訳者の慰霊碑で、それぞれ遺族の想い出の人達の名前がこの碑に刻まれて、その功績を伝えている。この双方の碑の前に元八王子村と刻んだ石垣がよく整頓されている。

高札(制札〉
村の町の往来にぎやかな辻や神社寺院の境内に高札が建ててある。当時、高札にわざわざ御の字をつける風習があり、奉行がその権威にかけて、市民に伝える伝言板である。主として法度提書(おきて)などを記し、近在でおこった犯罪や刑罰人を人々に知らせてこのような行為をせぬように、またさらし首や重罪人は、特にその罪状を記して高くかかげた板札。 
この高札のあった場所を高札場という(今の掲示場)。
元八王子は現在の四谷町郵便局の地(旧石森光国氏宅)外数ケ所に建てられであったという。

八日市場
「あんげ道」佐野川往還、現在の陣馬街道と五日市方面に通じる通称元八王子川口道との交差するところの四谷で、元八王子での中心地であり、往時この地で八日市場と称する市場が、月何回か開市されたのである。今の青梅信用金庫付近に、その場所をあて近村近在の金儲け目当の人達で賑わったのだろうが、それらしいものがないのがさびしい。

(横川)
武蔵国多摩郡横川村
本村も多摩郡横山由井郷に属し、その後八王子城下の地であったが、兵乱後天正十九年十月北条氏家臣馬場右近、武藤左京、富沢将監らこの地に来住し土地を開拓した。
北条氏滅亡した後は徳川氏の所領となり、大久保石見守長安をしてこの辺の土地を管理させる。
寛文七年(二三二七)代官高室四朗右エ門この地を検地した宝永二年(二三六五)綱吉時代前橋侯松平美濃守の預り所となったが同六年幕府旗下藤沢備前守領地に給し正徳二年(二三七二)藤沢大学の弟藤沢宮内に分地(わける)明治元年六月一日品川県に属した。

村里
釣り鐘鋳物師
全国どこの寺院でもつく大きな鐘楼から流れ出るあの素晴らしい音律、この鐘を元八王子の横川で昔製造していた、といったら驚く人が多いと思う。
上横川字滝原、北条時代よりすでに鋳物師としてその名をあり、しかも落城後も除地を徳川家より賜わり名作に代々打込んできた。
通称鍋屋と称し「釣鐘師加藤一家」であり、寛永年聞には三軒あり、ともにそれぞれ独特の製法を生み甚左衛門芳久、甚右衛門吉重など更に元禄年聞に入り、「甚右衛門吉重」「重兵衛」「吉政」「市郎右衛門吉次」という名工が続いた。この中で最も今も残るのに甚右衛門吉重一家の製したるものが最も多いようである。
山田広園寺寛永十九年三月大工武州滝原村「加藤甚右衛門金吾尉吉重」と刻した鐘があり、またこの外近村近在に多し。
それはこの鋳物工場が高台にあるため、深い井戸を掘らねばならぬ。鋳物には水は何よりも必要欠くべからざるもの。常に井戸水がなくなるようでは困るので竜頭を造り、これを井戸深く沈めて水神様とした。その故か水がなくなった事がないという。
また一説に芝増上寺の鐘がなかなか出来上らぬ。時の奉行はこの滝原在の加藤一家が特殊の製法の心得あるとの事を聞き、早速江戸に召寄せられた。そしてその方法をつぶさに指導したので、立派に早く完成したと、奉行この上ない満足であったと伝えている。このように多くの銘鐘を各寺院へ出したが、大東亜戦争となり、戦争資材の不足から供出された鐘の数多く、加藤一門で造ったものだけで五十八個、そして現存しているものは僅か十一個という(西多摩方面で戦時供出した数は六十四個の中、三十五個が加藤氏の作であった)。

日吉社(横川町九五五番地)
大己貴命を祭神とし天正十九年これを勧請する。例祭は九月十五日。

刀工(横川下原)
武州下原鍛冶は、永正年間(一二六四〉の頃の周重を万工とする刀工群が、八王子市下思方町字下原と横川町(下原)元八王子町(字鍛治屋敷)辺に住み、鍛刀に従事した山本姓の一族を中心としたものである。室町時代末期より安土桃山江戸時代を経て周重、康重、照重、広重、安固などの名工を生んだ。横川の山本家に所蔵の古文書の二、三を載せれば次の如し、『刀匠照重』一派の項中ここは元八王子字横川の部落である。山本源三郎照重と名のる刀剣鍛冶が享禄の頃(一二九〇)この地に居を構え除地一町一反余を有し、その子孫は連綿として今に家名を保っている相州正宗伝を相続したもので、思方村下原住にして、俗に「下原鍛治」と呼ばるるものの分派であると同家では門外不出の古記録の一部を許されるままに僅かに記したものである。
下原刀の作風は先反(そり〉もの多く、脇指(差)はほとんどそうである。また肌がうずまき風の下原肌が連続して現われている。この独特の鍛錬法は、下原鍛治の特技であろう。更に下原刀の特質は地鉄の強い光、つよい粗の感じする地肌が一貫している事である。
以来その名戸は続き、徳川幕府の御用達に多く、幾多の合戦にも実戦用に使用され、その真価は強く評価されたが、明治維新となり明治四年には断髪廃刀令が出るにおよび製造も中止に至った。
しかし、この間に製した数は五千振ともいい、全国的に愛刀家におさめられている。けたし銘刀を生んだ八王子の誇りの一つである。

横川 楳子(うめこ) コトバンク「 20世紀日本人名事典」より
明治期の教育者 武蔵国元八王子村横川(東京都八王子市横川町) 出身
生年嘉永6年1月(1853年) 没年大正15(1926)年1月3日
経歴明治11年より東京女子師範学校付属幼稚園の保母見習として保育法を学ぶ。のち同園の保母を務めるが、17年父の死によって家督を相続したのを機に女子教育をはじめ、21年には八王子に八王子女学校を開設した。同校は間もなく廃校するが、のち上野原にある本立寺の住職及川親能の助力を得て、25年同寺の境内に八王子女学校・八王子幼稚園を再建。以後、15年に渡って学校経営に力を注ぐが、40年には校舎及び学校施設を東京府に寄附。これが基となって府立第四高等女学校(都立南多摩高校)が設立された。

弁天地遺跡
水無瀬橋の西手前五百㍍程のところを左へ入ると通称弁天池といい、こんこんとわき水が絶えず、水の枯れたのを知らず、この水を利用して田んぼ用水としている。この辺は南北浅川の合流地点に近く、洪積層の徴高地で砂礁の混入が多い。
この地区は、縄文時代後期から同晩期初頭にかけての遺物が分布する地域である。そしてこの地区から採集される遺物は小形の精巧な石棒、石剣、滑車形耳飾などの貴重な遺物が多数出土している。特に住居の跡らしきものも三カ所、後期縄文土器および石製品を伴出することができた。
この住居跡直径四㍍程の円形の範囲に、表土下から一五〜三〇㌢の深さで石が散乱し一部に焼土あり、大体形も同じような姿で残っており、一部に敷石住居跡も見られた。
住居跡中より発見された遺物については、土器遺跡が浅いため、破損がはなはだしく、完形品はもとより復元しうるものさえなかったという。しかも破片の数は、おびただしく大部分が無文である
土錘は二個発見され、一つは長さ四・五㌢、幅二・五㌢、半面淡潟色半面黒色で、はなはだ粗雑である。耳飾はこの遺跡で最も多かった遺物で、完形品六個、ほぼ完全なもの二個、破損二個あった。この外石剣は中央部の破片一本で、長さ一三・五㌢、厚さ一・六㌢、幅二・八㌢であり、石質は緑泥片岩である。
石斧は完形品七個、破片ニ個うち磨製石斧五個打製四個であって、磨製石斧はいづれも定角磨製で、石斧の形式からいって精巧である。石棒は中央部の破片で長さ一五・五㌢。断面は太い方で三・三×二・四㌢の長円形で緑泥片岩一本である。この外石皿や黒曜石、珪石などが出て来たが、表土上が極めて浅いので開拓のための破損で、折角の遺跡の全容が判りにくいが、八王子付近の縄文時代後晩期の遺跡として貴重なものである。

水無瀬川の伝説
三百日以聞に水がなくて、その上下には水がある不思議というわけ。そのわけは、昔弘法大師がこの付近の百姓家に、のみ水をもらいによられた。ところがそこの婆さん、夏のあつい日水汲みが苦労なので、そう安々と水をやるわけにいかぬといって断った。すると大師、仕方なく裏の川へ行って水を飲んだ。そしてのんだところに杖を突いた。するとさきの婆さんの家から二、三町上下の間の川の水が下をくぐって流れるようになったという伝説。

 

散策コースの地図(PDF)


龍泉寺


吉祥院


船田遺跡


船田遺跡(古墳)


地蔵と庚申塔


鈴木正三(石平道人)の墓


石平道人墓碑


長泉寺


東照寺


出羽山砦跡



出羽山砦跡


出羽橋


原屋敷遺跡


御嶽神社


御嶽神社


御嶽神社


西光院


西光院地蔵



西光院大師像


西光院石垣


大六天魔王神社


日枝山王社


日枝山王社内の祠

 

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