第24回 802ちず楽会
開催日時:平成29年11月26日(日)13:00集合
集合場所:JR高尾駅北口改札付近
コース:
JR高尾駅→旧甲州街道→千人町→追分→八日町交差点→横山町→JR八王子駅
東浅川駅跡
旧甲州街道の東の入口から現甲州街道を東100mほどのところに北に向かう広いケヤキ並木の通りがある。これが、大正天皇の多摩御陵、昭和天皇の武蔵野陵へ続く通りであるが、我々は、一旦、甲州街道を挟んで御陵とは反対の道を南に向かうことにした。この道は御陵へ向かう北側と同じ道幅の広い通りだが、すぐに行き止まりになる。行き止まりの正面には曾てここに存在した「綾南会館」の表札が埋め込まれた石の門が今も残る。建物は1990年(平成2年)10月9日に左翼によって爆破され、今は跡かたも無くなっているが、それまでは八王子市の公民館として利用されていた。元はJRの前身である国鉄の「東浅川駅」で、この駅は大正天皇の大喪列車用の臨時駅として開設され、皇室専用の駅であった。駅舎は社殿風の建物であったが、1960年(昭和35年)に廃止され、八王子市に払い下げられ、公民館として利用されていた。当時の地形図には、駅の東から線路が二股に分かれ、北側の線路がこの広い通りの南側で終わっているのが読み取れる。
御陵線
1931年(昭和6年)から1945年(昭和20年)まで営業していた京王電気軌道(→東京急行電鉄→京王帝都電鉄)の鉄道路線。
大正天皇が埋葬された天皇家初の関東地区での多摩御陵が話題となり、多くの参拝者の移動手段として京王電気軌道の手により敷設された。普段は北野-多摩御陵前間の折り返し運転であったが、全盛期の頃は土日になると新宿からの直通運転が行われ、省線電車との熾烈な輸送競争を行っていた。
戦局の悪化に伴い不要不急線として1945年(昭和20年)1月21日に休止。休止期間中は、駅舎、線路、バラスト、架線柱は順次撤去され、その跡は雑草が生い茂り、実質的な廃線状態であった。ただ、築堤、一部の架線柱、高架橋の橋脚、鉄橋等は高尾線の敷設工事まで残され、今でも京王片倉駅新宿方の国道16号線を跨ぐ下り線の鉄橋は、御陵線開業時のものが使用されている。 御陵線廃線跡は、後に、北野 - 山田間が高尾線の一区間に取り込まれる形で復活。残りの山田 - 多摩御陵前間は高尾線新設区間の山田 - 高尾山口間の免許認可後の1964年(昭和39年)11月26日付で正式に廃止となった。
千人町 馬場横丁
この通り付近に千人同心の乗馬練習場があったことら馬場横丁とも呼ばれた。
千人同心屋敷跡の碑(追分町)
八王子千人同心の住んでいた屋敷跡に建てられた碑。これから西一帯は千人同心に因み「千人町」という地名がついている。
当時の絵図から、組頭は、甲州街道の南に居住し、一般の同心は、甲州街道の北側に多く居住していたことが分かる。
高尾山道の碑(追分町)
文化八年(1811)江戸の足袋職人清八が高尾山に銅製の五重塔を奉納した記念に江戸から高尾までの甲州道中の新宿、八王子追分、高尾山麓小名路の3か所に立てた道標の1つ。
昭和20年の8月2日の八王子空襲の際4つに折れ一部行方不明となり、基部は地元に置かれ、一部は八王子資料館に展示されていたが地元の要望を受けて行方不明の一部を補い復元された。
少し前までは交番の前の甲州道中と案下道の分岐部にあったが、現在は甲州街道側に移転された。
基部には、明治初期の水準測量の基準点として不号の印が刻まれている。
石坂弥次右衛門(いしざかやじえもん)墓(千人町 興岳寺内)
石坂弥次右衛門義礼(よしかた)は、千人頭石坂家の11代目で、日光勤番として日光に赴任した1ヵ月後、討幕軍として日光入りした板垣退助に東照宮を明け渡し八王子へ帰った。しかし、一戦も交えずに日光を明け渡したことへの批判を受け、責任を取って慶応四年(1868)4月10日に切腹した。後日になって、日光を戦禍から救ったことが評価されるようになり、墓のある興岳寺内に顕彰碑が建てられた。
三年坂
甲州街道追分交差点の東150mほどから北に入る路地は、甲州街道と多賀神社に向かう道に繋ぐ坂道だったがバイパスの建設に伴い分断されてしまった。坂の名は坂下にあった子育て地蔵(別名車地蔵)にちなみ安産や子育てを願う産寧(さんねい)坂と名付けられたという。また、「三年坂で転ぶと三年のうちに死ぬ」という言い伝えもあったという。
(参考)
●八王子千人同心
徳川家康が関東入国とともに、武蔵・甲斐の国境の甲州街道警備を目的に設置された郷士身分の集団で、当初は五百人同心として設置されたが、慶長4年(1599年)には同心を倍に増やし八王子千人同心ととして旗本身分の八王子千人頭の下に十組・千人で組織され、幕末まで存続した。同心は平時は農耕に従事し、年貢も納める半士半農であった。(平同心は任務時だけ幕府同心の身分だった可能性がある。)
任務は当初、武蔵・甲斐国境の甲州口の警備と治安維持であったが、治安が安定した17世紀半ばからは、日光東照宮を警備する日光勤番が主な仕事となり、19世紀に入ると寛政12年には集団で北海道・胆振の勇払などに移住して蝦夷地の開拓に携わり苫小牧市の基礎を築いたり、文人として、幕府の学問所であった、昌平坂学問所で新編武蔵風土記稿の執筆に携わる者、蘭学を学んだ医師や思想家、新撰組の剣術として知られる天然理心流の剣士などを輩出した。
新編武蔵風土記稿の編纂には、千人頭の原胤敦(たねあつ)、組頭の植田孟縉(もうしん)と塩野適斎(てきさい)が携わり、武蔵野名所図会は植田孟縉、桑都日記は塩野適斎が編纂したものである。
●八王子十五宿(十五組)
横山宿(横山町)、八日市宿(八日町)、八幡宿(八幡町)、新町、寺町、上野原村(上野町)、小門宿(小門町)、八木宿(八木町)、本宿(本町)、子安宿(子安町)、久保宿(追分町)、島之坊宿(日吉町)、本郷宿(本郷町)、横町(大横町)、馬乗宿(中町、南町) ( )は現在の地名
|
|
散策コースの地図(PDF)

中央線鉄橋下の浅川

金南寺入口

観音堂

川沿いの石仏

南浅川

白山神社入口

川沿いの道
 旧道の千人同心屋敷

旧道の水路

山王社

甲州街道銀杏並木

横山出張所のオオツクバネガシ

稲荷森神社

長安寺

千人同心の家

銀杏並木(追分)

古い造りの茶店舗

蔵造りの店舗
|
|