笛継観音
東福寺の観音堂に安置されている笛継観音は、戦国時代末期小田原北条の出城となっていた滝山城主北条氏照の家臣で笛の名手、彦兵衛にまつわる逸話(笛の名手の家臣に秘蔵の笛を預けておいたが、この家臣の手落ちで壊してしまい、観音に祈ったところ元どうりに戻ったことが城主の氏照に伝わり、この観音像の霊威に感銘し、以降、この家臣は「笛彦兵衛」と名乗ることを許されたという。)が残されている。
日野用水
永禄 10 年(1567)、当時の滝山城主北条氏照の力を借りて、美濃からきた佐藤隼人が開削し、日野の台地の灌漑用水として今日まで 450 年余りに渡り同じ場所を流れ続けている。
谷治川
八王子市戸吹町に源を発し、滝山街道に沿って南東に流れ、日野市で多摩川に合流する全長 12.9km の河川。河川改修が進み、現在は直線的な流路になっているが、河の両岸には旧河道が緑道として残されている。
七ツ塚古墳群
日野台地の北端、北の多摩川と北西の谷地川に区切られた舌状台地にある。明治 27 年(1895)の時点で7基の古墳が確認されており、これが「七ツ塚」の地名の由来となっている。
昭和 29 年(1954 年)に行なわれた発掘調査では、横穴式石室を主体部とした古墳が発見され、直刀一口、刀子二本、鉄鏃四本の副葬品が出土した。また、古墳の周辺からは、戦前に女性埴輪・円筒埴輪・管玉・勾玉等が発見され、昭和
36 年(1961)10 月1日に日野市の史跡に指定された。古墳群の造営年代は六~七世紀頃と推定されている。平成 14 年度(2002)の調査では8番目の古墳が検出されており、9基以上の古墳が包蔵されている可能性が高いと考えられている。
小宮古墳
現在の久保山町のほぼ全域に広がっていた宇津木台遺跡群の一角にあり、1980 年代の開発に伴い発掘調査が行われ、内径 19.8m、外径 24.4m
の円墳であることがわかった。河原石を小口に積んだ横穴式石室が出土し羨道部の南側にはハの字型に開く墓前域があった可能性がある。主体部の主軸は西に
20 度傾き、玄室、閉塞部を含む全長は 7.2m。玄室長は 2.4m 奥壁幅 1.2m、最大幅 1.8m の胴張り型で玄室と羨道の間には仕切り石の痕跡が認められた。玄室内からは多数の鉄釘が出土し、木簡が収められていたことが推測される。
宇津木向原遺跡
中央自動車道八王子インターチェンジの工事に伴い、1961 年(昭和 36)〜64 年にかけて三度の調査が行われ、縄文時代から古墳時代にかけての住居跡が確認された。全国で初めて「方形周溝墓」と名付けられた弥生時代の墳墓が確認されたことで有名な遺跡である。
狐塚古墳
宇津木向原遺跡にあった古墳で昭和 39 年に調査された。直刀や鉄鏃がしたと伝えられるが、調査時点で古墳の主体部、周溝とも破壊されており、規模等は不明。河原石が多量に出土していることから、河原石積みの横穴式石室を有する古墳だった可能性がある。
北大谷古墳
直径 39m・高さ約 2m の円墳で、葺石・埴輪は見つかっていない。周溝が部分的に確認されている。埋葬施設は南側に入口をもつ横穴式石室で、全長約
10m、羨道・前室・玄室からなる複室構造で、凝灰岩の切石を使用、玄室部は平面が弧を描く「胴張り型」になっている。なお、石室構築前に掘り込み地業と呼ばれる基礎工事が行われていたことが判明している。出土遺物に土師器がある。7
世紀前半の築造。都指定旧跡、1936(昭和 11)年指定。
鵯山古墳
昭和 32 年に調査され、主体部は河原石を小口に積んだ横穴式石室であった。羨道と玄室の境には仕切り石があったとされる。石室の主軸は北から東に
30 度傾く。横穴式石室は長方形で石室の長さは 2.7m、奥壁幅 1.07m、羨道幅は 0.8m と報告されている。
大善寺
創建は、天正年間(1573~1592)北条氏照が、讃誉牛秀(慶長十年 1605 寂)に帰依して開基となり、滝山城下に建立された。八王子城の築城にともなう滝山城廃城により大善寺も八王子城下へ移転、更に八王子城の落城で大横町に移り、多摩川支流の浅川に面し、街道を挟んだ向かいにある同じ浄土宗の極楽寺とともに、交通の要衝で様々な役割を果たした。この大横町時代に徳川家康公から朱印を授かり浄土宗の学問所である「壇林」となった。
江戸時代は十夜寺として栄え、末寺 23 か寺を持つ大寺となった。開山の讃誉牛秀上人は、浄土宗の布教書の元となる「説法色葉集」を署した。八王子総奉行
大久保石見守長安や代官 竹本権太夫 等の援護により発展し、第二世 含牛(がんぎゅう)、壇林 大光院の開山となる第三世の呑龍(どんりゅう)など優秀な学僧を輩出している。
戦後は浄土宗を離れ単立寺院となり、昭和 36 年(1961)には大和田町へ移転し、その後、現在の大谷町へ移転し、昭和 56 年(1981)に現在の本堂が完成した。
●大善寺の十夜法要
八王子城落城の際の戦死者慰霊のために江戸時代より始められたという十夜法要は、その儀式様式は十夜の発祥で知られる鎌倉 光明寺の流れを汲むものながら「滝山流」と云われる独自の法式「諷誦文(ふじゅもん)十夜」として、大横町時代には毎年十月十三日から十五日の三日間、「八王子のお十夜」として関東一の人出となる法要となり、サーカス小屋もかかり、現在の寺地に移転するまでの約
300 年余の歴史をもつ行事であった。大谷町への移転に伴い休止を余儀なくされていたが、平成 24 年(2012)に再興した。(※平成 29 年度は
10 月 29 日(日曜日)
●機守神社(はたがみさま)縁結びの神様
長野から運ばれてくる絹は八王子を経由して横浜港に運ばれていた。かつて繊維産業が日本を支えていた時代、八王子は「織物の町」として栄えたが、その名残のひとつが境内に祀られる「機守様(白滝姫)」である。
江戸時代に上州桐生出身ながら多摩に来て博多帯を織っていた福田吉蔵の子 由太郎が、ある夜、霊夢で白滝姫から製織の技法を授かる。その感謝のしるしに、白滝姫の御神影を大善寺の傍らに祠を建て、朝夕の崇拝をかかさなかったという。今も機守神社は吉田吉蔵の家系が設立に関わった八王子織物工業組合と大善寺により守られている。
白滝姫の降嫁伝承にまつわり、機守神社は『縁結びの神様』としても知られ、毎年七月の第一土曜日に機守神社の禮祭が催され、当日は秘仏の「白滝観音尊像」が公開される。
暁橋
浅川の両岸住民により大正 10 年に暁橋架設発起人会が結成され、住民から寄付を集め翌大正 11 年 11 月に起工し、1 年以上を要して大正
12 年 3 月に完成した。その後管理は市に移管され、昭和 25 年に八王子・安土線の都道認定に伴い都に移管された。建設当初は木造だったが、昭和
30 年に鉄筋コンクリート橋に架け替えられた。
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散策コースの地図(PDF)

笛継観音

日枝神社

谷治川

谷治川の旧河道

琵琶滝修験道場

琵琶滝道

谷治川の旧河道

たこ杉

板碑

男坂の階段

詩碑

北大谷古墳

大善寺

機守神社

白滝姫の御神影
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