八王子市街 北西部2017 02 26

宗格院
武田家遺臣の子、八王子千人頭山本忠房とその弟价州良天が文禄二年(1593)に開いた曹洞宗寺院。千人同心組頭山本家の菩提寺。
境内に『松本斗機蔵の墓』『石見土手』『千人同心屋敷跡記念碑』がある。
松本斗機蔵の墓(都文化財)
千人同心組頭で蘭学者。昌平黌学問所で学び、最上徳内、高野長英、渡辺崋山などと交流があった。開港と海防の必要性を唱え、浦賀奉行に命ぜられるが、赴任前に病死。
石見土手(八王子市指定文化財)
大久保長安が浅川治水のために築いた堤防。境内に約60mほど残っている。

横川弁天池
『八王子市の湧水情報』によれば、「かつては池の島に弁天様を祀り、周辺ではワサビを栽培し、水車も回っていたといいます。
この池で戦後初めてトウキョウサンショウウオが見つかったそうです。」とある。
現在では、北浅川からの伏流水の浸透量が減り、乾期には水がなくなるといった環境の悪化を受け、公園として整備されている。

多賀神社
八王子市街の西半分の鎮守として、『西の総社』と呼ばれた。境内社には、織物業者が信仰する機守神社がある。
多賀神社扁
慶応二年(1866)千人同心の神宮寺・川村・塩野の三名が、第二次長州出兵時、大阪で作らせたもの。千人同心は幕末、警護や出兵に動員された。
多賀神社神輿・山車
神輿は明治十五年(1882)浅草で購入したものと伝えられる。千貫神輿と通称。八月の祭礼で渡御。山車は、八幡町・八幡上町・八木町・追分町のものが保管されている。八月の八王子祭りで曳く。

片倉製糸場
かつて日本最大の製糸企業であった片倉製糸紡績株式会社(現:片倉工業)が操業していた製糸工場。
元々は(東京府南多摩郡小宮村所在の)荻原彦七氏の所有する工場であったが、明治32年片倉組(片倉製糸紡績の前身)に買収された。
八王子製糸場(一六〇釡)と呼ばれた。
現在では、片倉工業の子会社である日本機械工業株式会社の本社工場となっている。大正創業の国産消防車の老舗である。
日本機械工業社員寮
元々は、片倉製糸所の蚕室に使われていた建物。

中田遺跡公園
縄文時代から平安時代までと長期間に渡る住居跡が発見されている。
なかでも古墳時代がこの集落の最盛期で、70軒を超える竪穴式住居跡が確認されている。
浅川支流の川口川左岸に形成された低位河岸段丘上に位置している。
竪穴式住居が復元・保存されていたが、現在は解体、遺構表示となっている。

八王子市立第九小学校
明治7年に開校。現在地には明治34年に移転してきた。

龍善寺
元は滝山城下にあった日蓮宗の寺。八王子城が築城されると共に移転するが、八王子城落城により天正十九年(1591)に本郷村の現在位置へ移る。
増田蔵六の墓
天然理心流の達人であり、千人同心組頭増田家の養子でもあった、増田蔵六の碑と墓がある。天然理心流は千人同心の間で広く学ばれた剣術であった。増田蔵六は千人町の屋敷内に道場を構え、千人同心たちに天然理心流を指導した。

八王子市立第二小学校
明治六年、宗徳寺内に「八木学舎」として開校。通ってくる児童数は121名(男子65、女子56)教員は2名。明治10年ごろには児童数135名、この地域での登校すべき児童の1/4程度だった。

千人同心屋敷跡碑
この碑のあるあたりから千人町にかけて、千人頭が将軍家より拝領した屋敷があった。屋敷の広さは、頭で五千五百坪、同心は三百三十坪程度であった。

興岳寺
武田家遺臣、石坂勘兵衛が千人頭として、この地に屋敷を賜った。
この屋敷の東部に建てられた菩提寺が興岳寺の基。
石坂義礼の墓・顕彰碑
千人頭石坂家十一代の石坂義礼は、戊辰戦争時日光勤番であった。
宇都宮の戦いで破れた旧幕府軍がやってきて日光山に陣取った。官軍が日光に迫り戦端が開かれようとしたとき、日光山僧の嘆願もあり、官軍の板垣退助が旧幕府軍へ日光退去を申し入れた。旧幕府軍はこれを受け入れ、会津へと向かった。石坂義礼と日光勤番は八王子へ退去したが、「戦わずして日光を明け渡した」との非難が高まり、義礼は責任を取り切腹した。寺の境内には、義礼の墓と顕彰碑が建てられている。

 

散策コースの地図(PDF)


宗格院


石見土手


横川弁天域


多賀神社


片倉製糸場跡


中田遺跡公園


龍善寺


増田蔵六の墓


 

Copyright(c) E-Map802 Jan.2010