八王子往還と甲州街道を辿る(2016 11 13)

 11月13日(日)13時 今回の初参加のIzさんとMnを含む11名が京王線長沼駅に集合。晩秋の小春日和に恵まれ、済んだ空気が気持ち良い午後であった。今回の案内人は、豊田が地元のOsさん。日野市と八王子市に跨る浅川沿いの旧道「八王子往還」から甲州街道の旧道を辿る。
 Tnさんに調べていただいた八王子往還は、平山-長沼-北野-八王子と辿るルートと、平山-滝合-西平山-大和田-八王子の2ルートがあったという。今回のコースは、後者の大和田経由のルートで、日野の台地の西側の縁に沿って歩く。甲州街道に接続するまでの南側半分が日野市平山(旧七生村)、北側半分が八王子市大和田(旧小宮町)になる。

八王子往還
 平山村と八王子を結ぶ往還は、長沼、北野を経由する道路と西平山、大和田を経由する道路の2路線があった。
長沼、北野を経由する道路は、現在は「北野街道」と呼ばれる道だが、この道は丘陵から浅川に流れ込む沢水が平地に出たところで「天井川」となり、アップダウンのある道になっていた。現在の北野街道は、昭和18年(1943)に相模海軍工廠南多摩分廠、相模陸軍造兵廠、中島飛行機浅川地下工場、三鷹飛行機小比企工場などの施設を結ぶ「軍事物資輸送路」として整備されたものである。一方、西平山、大和田を経由する道路は、浅川左岸の段丘上を行くので比較的平坦であり、大和田で浅川を渡り中心地の八日市場まで平坦な道が続くので、荷車の通行には楽だったといえよう。この道は、「往還」と言っても道幅1間半(約2.7m)に満たない道路で、村々を繋ぎ、曲がりくねった道で、主として村人の生活道路として使われていたようである。

上村用水と川北用水
 長沼駅から長沼橋で浅川を渡ると、日野市平山になる。地形的には北が高く、南が低い。多摩川の支流である浅川が日野の台地の西側を南下し、長沼で東に向きを変え台地の南の端を東流する。台地の高い部分はかつて桑畑や畑となっていたが、低い部分は貴重な水田になっていて、その水田に必要な水は、浅川から取水した二本の用水で賄われていた。浅川に架かる長沼橋を越えてすぐのところに上村用水があり、今も豊富な水量を保っている。この用水と八王子往還が交差する橋の袂には馬頭観音の石仏がある。さらに少し北側に進むともう一本の川北用水がある。なお、大正時代の地形図にはこの水路沿いに水車の記号が並んでおり、昭和の初め頃まで水車がたくさん設置されていたことがわかる。

往還沿いの野仏
 八王子往還沿いには、古い道らしく集落の入口に庚申塔、馬頭観音、地蔵などの石仏が見られる。
 道路の脇に建っているお地蔵さん、庚申塚、馬頭観音などを 「野仏」といい、村への病気侵入の防止、地域の安寧を祈って村人たちが建立してきたため、村や集落の出入口やに見られることが多い。ところが、近年道路の拡幅や付替えによる工事に伴い、これらの野仏が元あった場所から寺社等に集められたり、廃棄され旧道を辿る目印が失われつつある。
 しかし、今回歩く八王子往還にはこうした野仏が多く残っている。前述の上村用水北側の馬頭観音のほか、西平山4丁目には江戸時代のものと思われる地蔵尊、馬頭観音、庚申塔がまとめて建っている。また、浅川河川敷の運動公園にある石仏2基は、もとは日野と八王子の境に建っていたもののようである。

さいかち堰

 上村用水と川北用水の水源になっているのがさいかち堰である。
 八王子往還沿いで、JR中央線が浅川を渡る鉄橋の付近にある堰で、現在は浅川の川底から取水し「川北用水」、「上村用水」として使われているが、元は、段丘面と川面の高さが等しい所に堰を造り、堰から水を取水し、高さのほぼ等しい段丘面の中腹に用水路を掘り、段丘面上に水を送る「関東のつり堰」とも言われていたそうだ。「さいかち堰」の「さいかち」は樹木の名前で、この堰の周辺にこの木が植えられていたことから堰の名前になったという。

山王社(日枝神社)
 さいかち堰からJR中央線の踏切を越え、西平山5丁目の集落に入り、しばらく北に進むと道路の右手の一段高いところに鳥居が見える。台地の先端部に位置するところに、山王神社が祀られている。この神社は江戸時代末期から明治時代初期に建立されたと説明板にある。境内の一角には祠があり、青緑色の扁平な石に梵字を刻んだ青石塔婆とも呼ばれる中世の「板碑」が納められている。

運動公園付近の境界
 山王社を北に向かい、運動公園で一休みして地図を見ると、この付近の日野市と八王子市の境界が判別できないことに気が付いた。運動公園を出たところで道路を見ると、道路の中央に境界杭が埋められているのが目に入った。住所を示すプレートの色が道路を挟んで川寄りが紺色、反対側が緑色になっている。紺色は八王子市、緑色は日野市のプレートである。この付近の八王子市側は、浅川と道路の間の狭い敷地で、住宅1軒分の幅しかない。更に進むと道沿いに水路があり、住民の方洪水対策の設備について話を聴くことができた。

関根神社
 運動公園から、八王子市と日野市の境界を確認しつつ北に向かう。八王子往還は川沿いの道を行くが、今回は台地の上を目指して北東方向に住宅の中の道を往くことにした。
 その住宅の中に手入れの行き届いた神社がある。この神社は、小田原北条氏の家臣・関根筑後守光武が北条氏政から粟の須村を賜り、土着した関根氏によって祀られてきた神社で、江戸時代には関根明神社と呼ばれていたが、『新編武蔵国風土記稿』には創建年・祭神不明と記されている。境内に稲荷社、日枝神社の2社があり、現在は下大和田村の鎮守となっている。

お穴さま
 関根神社の前の道を北西に向かい、JR八横線の高架橋をくぐり段丘崖下の細い道を進むと、道の右手の崖沿いに南無妙法蓮華経と掘られた石碑と石の鳥居が現れる。とんとん健康散歩の会の「とんとん健康散歩道」に次の記載があるという。
《大正から昭和にかけて、八王子付近は、桑の都、織物の町として栄えたころ、農家の小高い雑木林の中腹に小さな洞穴があり、桑の葉の貯蔵庫として使っていた。しかし、この穴の付近に白い蛇が出て不幸な出来事が続いた。近所の西山さんは霊感の働く人で、先祖代々の業を消滅させ大正13年「妙法結社」を結成された。「お穴さま」の騒ぎが起きたのは、昭和3年、現豊田街道の拡幅の際、丁度妙法結社の真ん前まで掘り進んできたところ、ぽっかり穴があき中に人骨が何体か発見され大騒ぎになった。西山さんがその守護神のお告げとしてこれらの遺骨は、武田軍の落武者たちがここまで逃げ延びてきたが遂に力尽きたものであると説明した。その後も家族の人たちが正、五、九月の十八日に礼拝式を行いまもっている。守護神は「妙観圓大善神」と「正真稲荷大善神」である。》
 手前には「武田信玄家臣供養塚」と刻まれた供養塔が建っている。

大和田坂の上に祀られた日枝神社
 甲州街道が日野台地に上がる坂の上に「日枝神社」がある。慶安2(1649)年10月に徳川家光から高五石の寄進と御朱印を賜うと伝えられている。富士山を背に八王子市街が一望できる高台にあり、江戸時代から甲州街道を行き交う人びとが参詣したといわれている。また、近藤勇が天然理心流の四代目を襲名したときここで奉納試合をしたと伝えられている。
 もともと、「日枝神社」は、比叡山麓の日吉大社(本宮)の勧請を受けた山王信仰に基づく神社の社号といわれ、日吉、日枝、山王神社は、日本全国に約2000社あるという。境内には稲荷神社も祀られている。

高幡山不動碑
 現在の大和田町は、南多摩郡小宮村の一部だったが、昭和16年に小宮村の八王子市編入に伴い八王子市の一部となった。
江戸からの甲州街道が八王子に入る手前に位置する大和田は、交通の要所でもあり旧道の分岐には、石の道標が立てられていた。 現在、大和田町東光寺の塀の横にある3基の石造物のうちの一つがこの高幡山不動碑である。並んで立てられている庚申塔は甲州街道の大和田坂の坂上から稲城へ向かう道の分岐点にあったものだという。大和田坂は、現在の大和田4丁目交差点から大和田3丁目と4丁目の間を北東に上る甲州街道の坂で、かつてはかなりの急勾配で交通の難所であったという。
 3基の石像物で最も大きなのに、『高幡山不』と大きく彫られた文字が読み取れる。元は甲州街道の南側、八王子往還の日野市の高幡不動へ通じる道の分岐点にあったという。
 八王子市が作成した「ふるさと八王子」という冊子には、次のような説明がある。
『甲州街道の大和田坂を登り切った右側、細く急な斜面を南に抜ける道の角に、五間四方に小高く盛られた庚申塚がある。塚には、太古を思わせる古木の根から生えたつげと街道の方から大きく枝を広げた桜、それに二本の榎がちょっとした木陰をつくっており、中央に整然と三基の碑が並んでいる。庚申青面金剛寺の碑、三界萬霊塔、高幡山の初不動もうでをする人々の道標となった高幡山不動碑がそれである。三つの塚は四十八年二月に東光寺に移転された。寺の境内に入るとすぐ右側に、手前から高幡山不動碑、庚申青面金剛寺の碑、三界萬霊塔が並んで置かれている。』(東京都八王子市「ふるさと八王子」昭和55年 より)

大和田中央会館の道標
 大和田橋北から大和田町4丁目交差点手前までの間、現在の甲州街道の南側には旧甲州街道が残っている。
 この甲州街道旧道沿いの大和田中央会館の前に、石仏と並んで2基の道標がある。
 東側の大きな道標には、(東)「大正十五年四月 小宮村青年團大和田支部」、(北)「→八王子 ←新田日野東京」、(西)「→堀之内高幡方面」とある。しかし、この道標は、どこか別の場所から移されたと思われるので、道標が示す南方向の堀之内・高幡へ向かう道がどの道を指すのかは不明である。
 この側の小さな道標には、(東)「下大和田平通り大和田」、(北)「→豊田高幡 ←八王子」、(西)「→堀之内高幡方面」、(南)「大正十五年四月 小宮村青年團大和田支部」とあるから、こちらの道標も他の場所から移設されたもののようである。

八王子往還の分岐にある道標
 大和田中央会館から西に150mほど、大和田橋北から旧甲州街道を東に進んだ分岐点のガードレールの下にほとんど埋もれて、頭だけが残る道標がある。一見しただけでは道標と気づかないが、よく見ると四角い柱状の石には(東)刻字なし、(北)「村青」、(西)「王 日野」、(南)「大和田」の文字が読める。
「王」は「八王子」、「大和田」は「下大和田」のこととと推測できるから、この道標は浅川左岸沿いの八王子往還の分岐部に当たる現在の位置に元からあったものと見てよさそうである。

大和田橋の焼夷弾被弾跡
 第二次大戦の末期、昭和20年8月2日の未明、八王子市は、アメリカ軍のB29爆撃機180機による67万個という大量の焼夷弾投下により市街地の80%が焦土と化し、死者400名、負傷者2000名以上に及んだ。甲州街道の浅川に架かる大和田橋には、このとき落とされた焼夷弾の跡が残されている。
 橋全体では50個以上になるといい、歩道上には17個の焼夷弾跡が残されているが、車道上は補修されて形跡が残っていないものもある。このとき焼夷弾を避けるため、大和田橋の下には多くの市民が避難し、一命を取りとめることができたことから戦争の痕跡を後世に伝えるため、橋の補修工事の際に焼夷弾の落とされた跡に色付きタイルで印が残され、道路の両側の歩道上のそれぞれ1箇所に、痕跡を透明版で覆って残すとともに、橋の両端左右には説明版も設置された。

竹の鼻一里塚跡(竹の花公園)
 大和田橋から甲州街道のバイパスを西に向かい、最初の信号から斜め南の道が旧甲州街道で、この道を入った北側に竹の花公園があり、この公園の端には「一里塚跡」の石碑説明板ある。
 石碑の背面の説明によれば、ここは甲州道中八王子宿の東の入口に位置し、江戸から十二里にあたる。八王子市内には、かつて4か所に一里塚が置かれていたというが、現在でもその場所が明確なのはこの竹の鼻だけである。残る3か所は、並木町付近、荒井付近、小仏峠付近という。

永福稲荷神社
 竹の花公園の西隣りの一段高いところに「永福稲荷神社」がある。八王子市新町の鎮守で祀神は倉稲魂命とされ、古くはこのあたり一帯が竹の鼻と呼ばれていたことから、竹の鼻稲荷神社とも言われていた。境内には大きな庚申塔があり、毎年9月の第1土曜日に例祭の「生姜祭」が行われる。
 この永福稲荷神社は、宝暦6年(1756)8月2日に力士八光山権五郎が再建したもので、八王子城落城と同日に相撲を奉納したと言われている。永福稲荷の本殿横に八王子の生んだ俳人松原庵星布によって、寛永年間に建てられた「日影塚」といわれる「芭蕉句碑「蝶の飛ぶばかり野中の日影かな」がある。

大義寺
 旧甲州街道は、永福稲荷神社の先で直角に南に曲がり、現在の甲州街道に合流するが、最初の信号を西に向かうと、北側に八幡八雲神社の別当である大義寺があり、墓地内には、1814年12月28日没の松原庵星布の墓がある。

八幡八雲神社
 大義時の先の信号を南に向かいと八王子の東の神社として信仰を集める八幡八雲神社がある。この境内には、武蔵七党のひとつ横山党の根拠地がこの付近にあったと伝えられており、横山神社が祀られている。
 八幡神社の東の道を南に向かい、横山町の交差点で甲州街道を過ぎて、野猿街道を南に向かい、最初の信号を西に曲がり、八日町の懇親会場へ向かったが、懇親会場の伊奈喜の開店までまだ1時間ほど時間があったので、懇親会場の先にあった代官屋敷跡に行ってみることにした。

産千代稲荷神社
 八日町から小門町に向かって歩くと正面右手に煙突が見える。市内に残る銭湯「松の湯」の煙突である。松の湯の交差点を南に向かうと、道沿いの右手一段高いところに産千代稲荷神社がある。神社の入口には大久保長安陣屋跡の石碑と説明版がある。ここは、大久保長安(1545~1613)が関東十八代官の頭として関東の統治を行うに当たり、八王子においた陣屋跡の一部と考えられている。陣屋の範囲は定かではないが、鬼門の方向に稲荷社を置いたとされており、この稲荷がそれと考えられる。陣屋の北、西、、南は土居で囲われていたが、ほとんど削平され、社が置かれたここだけに名残をとどめており、境内には当時からの古井戸も残っている。最近、境内に大久保長安記念館も建設されている。

 しばらく休憩しているうちに、秋の陽はつるべ落としというように夕闇が迫ってきたので、少し早いが懇親会場に入れていただくようお願いし、甲州街道に出て八日町へと向かった。甲州街道のいたる所に、昔のこの付近の写真が掲示されており、参加者は懐かしそうに見入っていた。
 懇親会場の「伊奈喜」は参加者の一人Inさんの実家で、八王子では老舗の料亭である。今回がこの会の20回目に当たることから、忘年会も兼ね懇親会場として利用させていただいた。
 懇親会のみ参加のTさんも合流し、いつもの居酒屋とは少し違った雰囲気でこれまでの20回の会を振り返りながら、和やかなひと時を過ごして解散した。

 

散策コースの地図(PDF)
散策コース(KML)



上村用水


八王子往還沿いの池


八王子往還沿いの用水路


野仏の説明を聞く参加者


西平山集落の野仏


さいかち堰からの取水口


台地の縁の山王社


日野市と八王子市の境界


下大和田の関根神社


お穴さま


日枝神社の石段


日枝神社


庚申塔と高幡への道標


石仏と下大和田への道標


八王子往還への道標


大和田橋の焼夷弾跡


竹の鼻公園の一里塚跡

永福稲荷神社


大義寺の松原庵星布墓


八幡八雲神社



八幡八雲神社の神輿


横山党根拠地


産千代神社

 

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