舘の湯殿川旧河道と浅川地下壕のトロッコ敷跡を辿る(2016 09 25)

 9月25日(日)13時 今回の初参加のKuさんを含む11名が京王高尾線めじろ台駅に集合。前日まで雨が降り続き天気を心配していたが、この日は久しぶりに晴れ、秋の気配を感じつつも日中の気温は高かった。
 今回の案内人は、高尾が地元のKiさん。二人のお子さんも一緒。お兄さんのHyくんは2年前の小学生から中学生になり前回ぐんと身長が伸びていた。妹のKtさんも随分しっかりしてきた感じがする。9月は皆さん予定があり、いつも参加いただいている人たちが欠席で、今回は参加者が少ないと思っていたが、当日いなってIさんも加わり、結局いつもと変わらない人数になっていた。
 今年の3月にも西八王子からこの付近を歩いたが、今回はめじろ台から南に向かい、湯殿川沿いに館の集落を通り、挟間、初沢へと西に向かうことにした。

○椚田遺跡
 湯殿川に向かう途中に3月に訪れた椚田遺跡があるが、前回参加していない人も多かったので、最初に椚田遺跡に寄り道をすることにした。初参加のIさんは、遺跡のことは知っていたが訪れるのは初めてとのこと。入口の説明版に見入っていた。
 椚田遺跡からめじろ台の団地を南北に突き抜ける駅前の道に戻り、下寺田に出て湯殿側を上流に向かう予定だったが、古い地図を見ると、椚田遺跡の南側入り口付近から段丘沿いの大巻の集落を抜ける道があったので、この道を行くことにした。

○大巻の集落
 集落に降りる斜面の道はやや急坂で、足を怪我しているTさんにとっては、歩くのに苦心されていたが、ゆっくり歩いて下りることができた。坂の途中の右手には神社が見え、坂を下ったところに神社へ続く急な石段があり、この神社の名前は御嶽社となっていた。大巻のは、段丘下の南斜面に沿う古い集落で、道角で見つけた赤いトタン屋根の古い集会場は神社のような建物だった。

○湯殿川の旧河道
 
 大巻の集落を抜け湯殿川沿いの遊歩道に出た。改修された湯殿川沿いに作られた左岸側の遊歩道を上流に向かって歩くとすぐに草が生い茂った空間が現れ、草むらの向こうには集合住宅が並ぶ。集合住宅の敷地と草むらの間には柵があり、草むら側の縁が旧河道であった。その先に住宅が見えたが、また草むらの空間が現れた。今度は奥が深い。草むらの向こうには小学校の敷地が見える。旧河道は小学校の敷地の東の縁に沿って入り住宅の敷地の縁沿いに現在の湯殿川につながっていた。小学校側の旧河道の入口に当たる川の護岸には改修前の元の堤防跡が残っていた。
 小学校の縁に沿って遊歩道を進みむと、右側に分かれる遊歩道があり、この道の先には立派な橋が見える。橋まで架ける遊歩道だが、延長は短く橋を越えた少し先で川沿いの遊歩道と結ぶ道路に突き当たる。この遊歩道も旧河道で突き当たった道路の脇には小さな石造りの地蔵があった。旧河道はこの道路に沿って南に向かい現在の河道につながっていた。湯殿側の対岸の橋の下には暗渠の出口があり、歩いて来た旧河道はこの暗渠につながっていたことが分かる。
 さらに上流に向けて歩き始めると右手に小さな広場が現れた。広場と住宅の境には、木が植えられていたが、木の根元を見ると石垣が見えた。この石垣は川の護岸だったと思われる。ここもやはり旧河道の一部だったことが分かる。
 この広場を過ぎると前方に橋が見える。館町の中心部に当たり、北側の台地から館ケ丘団地に抜ける道の湯殿川に架かる橋である。この橋の袂には馬頭観音の石碑が祀られ、道路の向こう側からそこだけ草地の細長い敷地が北に延びる。これまで見て来た旧河道とは違い、かなり大きな屈曲の旧河道である。この河道の右岸にあった一つの集落がそっくり左岸に移っているようだ。この屈曲は、上流で対岸に続き、そこはもともと左岸だった数件の家が現在は右岸になっている。右岸側の旧河道は遊歩道として整備されたようだが、砂利敷きの道には草が茂り、歩く人がいないのだろう。

○光輝山龍見寺
館の集落の中心部を南北に貫く道路に出て、湯殿川に架かる橋を渡り、龍見寺に向かう。この橋から下流を見ると、三面をコンクリートで固められた改修後の川が見える。橋の先には高い石の擁壁で固められた切通しが目に付く。切通の入り口の斜面に朽ちかけた庚申塔があり、この道が古くから存在したことを物語っている。この切通しを過ぎると右手に広場が現れ、奥の高台にはお堂の屋根が見える。広場の北側の丘陵の付け根からお堂に向かう細い道があったので、この道を登ってみることにした。下の広場の奥には、石垣の上の上部が欠けた石塔などが見られる。この石塔には今から270年ほど前の元文三年の文字が刻まれているのが読める。高台の敷地には、大日堂と不動堂があり、大日堂の前の説明版によれば、ここにに祀られている大日如来は藤原時代末期のもので東京都の有形文化財に指定されているとのことである。
この寺の本堂は下の段にあり、大日堂のある上の段への登り口には石の地蔵や石塔が置かれており、参道の大きな木の下にも石の地蔵が祀られていた。

龍見寺から再び湯殿川沿いの散策路に戻り上流を目指す。橋を渡り改修された湯殿川沿いの道を行くと、大きな屈曲の旧河道は遠く離れ、現在の川と旧河道に挟まれたところに、酪農家の牛舎が見えてきた。八王子でも昭和30年代くらいまでは酪農家が多かったが、現在は数えるほどしか残っていないようである。
この酪農家の先に大きく屈曲した旧河道の上流部の分岐が出てくるはずだが明瞭な痕跡が見当たらなかった。ここから対岸の右岸に渡ると、左岸の大きな屈曲の旧河道に続く右岸側の旧河道が砂利敷の散策路として整備されていた。しかし、人通りが少ないと見えて、散策路はほとんどが草に覆われ、一見しただけではその存在も気が付かないだろうと思われた。
旧河道の散策路を辿り、右岸側の散策路に戻り上流に向かうと川沿いの集落の先に高い木が見えてきた。御霊神社である。

○御霊神社
集落入口の橋のところで、散策路を離れ南に向かうと右手に細い直線状の道が現れる。神社の参道である。遠いが正面に石の鳥居が見える。鳥居をくぐると両側を高い杉の木に囲まれた参道が続き、正面に神社の拝殿が見えてくる。杉木立が切れたところに社殿などが立ち並ぶ。正面の拝殿に向かって左手には、大きな杉の切株を囲う御神木舎や水屋があり、左手奥には、神輿堂がある。水屋と神輿堂の間、左手奥の敷地の隅には、力石と説明のある大中小三種類の丸い石がコンクリートの台座の上に並んでいた。説明板には「昔の人が石を持ち上げて、力を競ったものです。」とあり、大が210㎏、中が130㎏、小が70㎏とあるから、小でも持ち上げるのは容易ではなさそうである。参加者の若手数名が小の持ち上げに挑戦してみたが、皆断念していた。
社殿に向かって右手は空間になっていて、境内の外側は湯殿川になっている。社殿に並行して木製の碑史があり、この神社の縁起が書かれていたが、時代的には龍見寺の大日堂で見た説明と同時期の出来事である。

御霊神社の裏手の出口から、湯殿川沿いの散策路に戻り再び上流に向かう。しばらく進むと川の右岸側は台地の縁になり、草に覆われた急斜面の崖が続く。改修された川もコンクリートで囲まれずに、河川敷には砂や砂利が堆積していた。
川沿いの真新しい散策路を進み、上館の集落に入ったところで散策路は途切れ、その先に未改修のままの湯殿川が続いていた。南側の台地の上には東京医科大の八王子医療センターの茶色い建物が見える。

○上館
湯殿川から上館の集落を貫く道に出たところに、年代を感じさせる集乳所の建物があった。酪農が盛んだった頃は、酪農家が毎朝絞った牛乳を大きな専用の缶に入れてここに集めたはずであるが、今は使われていないのだろう。入口は大きな板で塞がれていた。
集落内の道を湯殿川の上流に向かって歩くと左手に川が現れ、川に架かる橋の向こうにお堂が見えた。橋を渡り対岸のお堂に向かう。お堂は、川沿いの道から石段で上がった一段高い台地上にあり、お堂の前の敷地には座像の地蔵菩薩や、不動尊と思われる石塔が並んでいた。地元では梅本庵神社というようだ。

再び上館の道に戻り、西に進むと道幅の広い町田街道に出た。交差点の先には拓殖大学に続く旧道がある。南北に走る町田街道を高尾駅方面に向かう。北側の台地を越える坂の両側は切通しになっており、終戦前後には、浅川地下壕に続くトロッコの軌道が敷かれていたはずであるが、現在はその痕跡も見当たらない。
しばらく続く上り坂を過ぎると平らな台地の上に出る。右手の佐藤製薬の工場の敷地を過ぎたところで左に折れ、今回の案内人Kiさんのお住まいの前の道に入り高楽寺に向かう。ここで、夕方から予定のあるというTsさんとKuさんは、直進して高尾駅に向かった。

○高楽寺
地元Kiさんの案内で、民家の脇を抜ける細い坂道を下り高楽寺の境内に入った。
境内は広くなく、庭園の通路沿いに地蔵を祀る小さな祠がありました。高楽寺は、16世紀の初めに高尾山薬王院の末寺として創建され、本尊は不動明王で、本堂の裏手にある洞窟には天明の飢饉に際し、五穀豊穣や病気平癒を祈願して祀られたという33観音などの石仏が安置されているようだが、事前の予約が必要なことと今回はコースから外す予定だったため見ることはできなかった。本堂からさほど離れていない山門の内側にしだれ桜の大木がある。樹齢200年を越す古木というが桜の季節にはライトアップも行われ、多くの人が訪れるという。
山門前で、小さなカメラマンKiさんの小学生の娘さんがこの日の参加者の集合写真のシャッターを押してくれた。

○トロッコの軌道跡
高楽寺のある台地から高尾駅のある一段下の面に北に向かって下った付近に、第二次大戦終戦時にトロッコの軌道があった。この線路は、初沢城址のある山の下と初沢川を隔てた西側の山の下に掘られた浅川地下壕から高尾駅に接続していた。
さらに、高尾駅付近で町田街道の旧道沿いに、現在の拓殖大学構内まで延びていたことが当時の空中写真から読み取れ、
昭和30年代までその痕跡は残っていた。その位置を現在の空中写真に重ね、現地を確認することにした。
この地下壕では、戦時中に中島飛行機のエンジンなどの部品を作っていたようで、現在も壕の中には当時の工場施設の遺品が見られるという。
整然と立ち並ぶ住宅の中の道を西に向かい、再び軌道敷のあったと思われる段丘の坂に向かって南に向かう。坂は階段状に整地されて住宅が建ち並ぶ。トロッコの軌道は、その上部付近を通っていたはずである。坂道を登りながら空中写真を比較すると、細長い駐車場が目に付いた。軌道はちょうどこの辺りを通過してる。この駐車場を延長した西側には住宅が立ち並んでいるが、住宅の南側には低い石垣が見られることから、軌道はこの住宅の敷地を通っていたと思われる。更に西に向かうと南側に茶色の大きな円筒状の建物が目に付く。ここがみころも霊堂で、入口の説明板によれば中には産業殉職者の霊位が奉安されされている。トロッコの軌道は、この霊堂に上がる階段の途中を通り、浅川中学校の校庭南の山裾を通過し、初沢が沿いの道に沿って南に延びていた。浅川中学校の南の道から初沢川を渡り、川沿いの道を南に遡る。坂道をしばらく登り道が平らになったあたりで浅川中学の校庭に続くトロッコの軌道は初沢川の西側(左岸)沿いの道と合流していたようだ。ここから先は、直線状の道になり終点の高乗寺付近の地下壕入口の前まで続いていたようだ。
地下壕入口は木と草に覆われており、一見下だけではそれとわからないが、この日は月に一度の地下壕見学会があったようで、そのグループが壕の入口で説明を受けていた

○高乗寺
初沢川沿いの道に面した地下壕の入口を過ぎると、西側の谷の一段高いところに古刹高乗寺鐘楼本堂の屋根が現れる。谷沿いの道と寺との間に細長い池があり、池に沿って石造りのさまざまな仏像が並び、寺への入口には六地蔵が並んでいる。
谷沿いの道の奥の山腹一面に、高尾霊園の墓地がある。この日はお彼岸の最後の休日と続いていた雨が止んだこともあって、霊園を訪れる人も多かったようだが、私たちがたどり着いた夕方には、さすがにその数も少なくなっていた。
霊園入口には谷を流れる小川のせせらぎがあり、参加した小中学生の二人が早速水辺に降りていた。
境内の説明板によれば、高乗寺は、片倉城主永井大膳大夫高乗が開基となり、臨済宗の名僧・法光圓融禅師峻翁令山大和尚が応永元年(1394)に創建したと伝えられる。その後永正2(1505)年に宗旨を曹洞宗に改め、通庵浩達大和尚が開山したという。また、永井家は、毛利家の系譜であることから毛利家の紋が寺の紋となっているとのことである。
歩き疲れたので、一休みして最終地点の高尾駅に向かおうとしたが、参加者の一人Tさんが高尾駅までの無料送迎バスが運航されていることを見つけた。休憩所で一休みして待っていると、寺の反対側の斜面に急な階段石の鳥居があるのを見つけた。近づいてみると、石の鳥居に階段を上るのは注意するよう貼り紙がしてあった。見上げると確かに注意が必要なことが分かる。階段の上には山王社があるようだがバスが来るというので山王神社は諦め、バス停に向かった。

幸い参加者全員がバスに乗ることができ、高尾駅まで歩かずに済んだ。高尾駅の南口の降車場で、所用があるというIさんと別れ、小中学生を含む7名でいつもの懇親会場へ向かった。この日はいつもより込み合っていたが、どうにか席は確保でき、喉を潤すことができた。

 

散策コースの地図


椚田遺跡


大巻集落の御嶽社


大巻集落を背に湯殿川へ


建物敷地沿いの旧河道


旧河道を利用した歩道


西谷集落の旧河道


改修された湯殿川


龍見寺大日堂


龍見寺入口の地蔵


旧河道の散策路


御霊神社入口の鳥居


御霊神社の拝殿


上館の改修された湯殿川


上館の不動堂


高楽寺(挟間)の枝垂桜


みころも霊堂へ続く階段


初沢のトロッコ道



浅川地下壕入口


初沢の高乗寺


高乗寺の石の仏像

 

       

Copyright(c) E-Map802 Jan.2010