恩方を歩く(2016 05 29)

 5月29日(日)12時20分高尾駅北口に集合。今回の初参加のNさんを含む11名が12:34発陣馬高原行のバスに乗り込む。
 今回の案内人は、2年前の2014年11月に陣馬街道を八王子方面に向かって案内していただいた地元在住のHさん。前回と同様に川原宿大橋のバス停で待ち合わせることになっていた。天候にも恵まれ、初夏の風が心地よかったが、歩くのには気温が高かった。当初はバスで恩方の奥まで行き、案下道(陣馬街道)を下る予定だったが、地元の旧家である前田家を拝見させていただけることになり、急遽コースを逆にした。
 前田家訪問の約束時間まで少し時間が合ったので、前回素通りしてしまった心源院に行ってみることにした。心源院の前の道は八王子城址へ続く旧道で、集落の出入口に当たる道角には、今も庚申塔が見られる。

○心源院
 この付近には、戦国時代にこの地域を治めていた大石氏所縁の寺が多いが、この寺もその一つで、延喜年間(901~923)の頃、智定律師の創建で大石定久が開基となって律宗から曹洞宗になったという。また、甲斐の武田氏滅亡の際には、武田信玄息女松姫がこの寺の随翁舜悦禅師より剃髪を受け、武田家菩提安泰のため仏弟子となり信松尼の法名を受けたことでも知られている。
 山間の寺にしては境内が広く、入口には新編武蔵風土記稿や武蔵名所図会の編者としても有名な塩野適斎撰、植田孟縉揮毫による千人同心小谷田子寅(しいん)の碑が残っており、境内の南の高台には秋葉神社が祀られている。

○前田家
 大正11年に下恩方町生まれた風景写真家として知られる前田真三の生家である。真三の父である前田林太郎は1930年~1946年にわたり恩方村の村長を務めた。周囲は板塀で囲まれているが母屋は昔のままの佇まいを残している。現在のご主人に案内され家の裏庭を拝見させていただくと、奥が一段高くなっており河岸段丘の上の面いなるという。表通りに面した庭はさほど広くはないが、裏庭を含む敷地全体はかなりの広さになる。
 参加者は、ご主人や奥様と思い思いお話をさせていただき、前田家を後に案下道を奥に向かって歩くことにした。
下川原宿のバス停を過ぎしばらく行くと左手に北浅川が現れるが、その手前の広場に大きな二十三夜講の石塔があった。

○案下道
 甲州街道から八王子の追分で別れた陣馬街道は、江戸時代に入り甲州街道が整備されると甲州街道の裏街道となったが、それ以前は案下道と呼ばれ、甲州へ続く主要な街道の一つだった。この地区は周囲が山で囲まれていたこともあり、江戸時代からほとんど変わら無かったが、高尾駅に繋がる道路や、圏央道の八王子西インターができた地区の入口に当たる川原宿、小田野辺りは市街化の影響を受け、変わって来た。しかし今回歩く松竹より奥は今でも明治時代の地図とほとんど変わっていない。現在の地図では、集落ごとの地名が消えているが、明治時代の地図に載っている集落名が現在のバス停名として残っている。

○八王子車人形
 今回は時間の都合もあり、訪れることはしなかったが、松竹の恩方第一小学校の東側に八王子車人形の西川古柳一座がある。文政8年(1825)に現在の埼玉県飯能市に生まれた初代西川古柳(こりゅう)(山岸柳吉)が考案したもの。江戸時代から伝わる車人形は、3人で一体の人形を操る文楽と異なり、3つの車がついた箱形の車に腰掛け、1人が操る一人遣いの人形芝居。平成8年に国の無形文化財に指定されている八王子を代表する伝統芸能である。

 松竹のバス停を過ぎ。圏央道の長井高架橋を過ぎた右手に、浄福寺を示す石柱が建っており、その奥に浄福寺城の説明版が設置されていた。
 浄福寺城の名前になっているお寺に行ってみることにし、石垣のある道を上がり、境内についたところ、若住職と思われる僧衣姿の青年が子どもを相手に遊んでいたが、私たち一行を見て寺を案内してくれるといい、本堂で寺の説明をして下さった。
 本堂の中に入ると、正面に向かい左手に大きな逗子が目に付いた。この逗子は東京都の重要文化財になっているとのことだが、秘仏になっている中の観音様は何故か指定されていないという。周囲の襖絵も気になったが、、本堂側は線などが薄くなっていた。戦争中疎開してきた子供がここに寝泊まりし、襖絵にも雑巾がけをして掃除したことが原因という。一部屋だけ元の状態が残っていたが、そこに描かれていた絵は実に見事であった。
 寺の説明を受け、浄福寺城の登り口をうかがうと、墓地の端の登り口まで案内してくれた。城跡へ向かう道はつづら折りのかなりの急坂だったことと、山頂まで行く時間が無いこともあって、途中まで登ってみることにした。道沿いには、観音の石仏があり、この道を登りながら三十三観音の霊場を巡ることができるとのことである。下で待つという数名を残し、中腹まで登って見たが、すぐ下に北浅川の流れとやや広い河岸段丘の平地が見え、築城の場所としても敵地であるように思えた。
浄福寺城跡
 大石氏系図によると、至徳元(1384)年に大石信重が二宮城(現秋川市)から移したとされるが、大石定久の時代に滝山城の出城として築城されたとの説もあり詳細は不明だが、八王子城の搦手口にも当たることを考えると、大石定久・北条氏輝の時代にも甲州口の守りの要として利用された可能性が考えられる。城山の北東に当たる辺名では、永正年間(1504~1520)、又は享禄年間(1528~1531)に山本周重が、大石氏に招かれて刀を鍛えたと伝えられ、下原刀鍛冶発祥の地の碑がある。

 浄福寺の墓地まで戻り、陣馬街道に戻ると、大久保のバス停がある。八王子駅からのバスは、ここで折り返しとなり、これから奥に行くには、このバス停で高尾駅から来る陣馬高原下行きのバスに乗り換える必要があるという。バスの時間は1時間に1本なので、歩いて奥に向かうには、帰りのバスの時間を気にする必要がある。

 大久保のバス停を過ぎ、しばらく行くと左手に北浅川を渡る旧道が見えたので、この橋を渡り古い集落と旧道を行くことにした。この道にも地蔵尊庚申塔があった。この集落が大久保である。
 大久保の集落を抜けると再び陣馬街道に出る。北浅川沿いに散在するのが佐戸の集落で、その先のカーブを北に向かったところが駒木野である。甲州街道の駒木野は関所が置かれた場所でもあり、裏街道でも比較的規模の大きい集落である。
 駒木野のバス停を過ぎ、ひたすら街道を奥に向かう。次の集落は黒沼田(くるみた)の集落である。ここでKyさんが別行動となり、10人で先を目指す。

 次のバス停は狐塚右手の斜面には畑が広がり、山の中腹に赤い屋根のお寺が見える。臨済宗南禅寺派の古寺で、至徳元(1384)年に山田広園寺の末寺として起山されたと伝えられる興慶寺である。
 この寺の鐘が童謡で有名な夕焼け小焼けの鐘といわれ、鐘楼の登り口には中村雨紅の歌碑もある。バスの時間を気にしながら、この寺のを見に行くことにした。寺まで登ると四方の山が近くに見え、改めて山奥に入って来たことが感じられた。

 次のバスのまで30分ほどになったので、この辺りでバスに乗ることを考えたが、待ち時間がかなりあるので、夕やけ小焼けの里まで歩くことにし、少し速足で力石の集落を通過した。宮の下のバス停を過ぎると夕やけ小焼けの里の建物が近づき、右手には中村雨紅の墓の案内が見えたが、時間がないので夕やけ小焼けのバス停のある駐車場まで急いだ。

○力石
 武蔵名所図会に、力石の村民が家の後に長さ1尺5、6寸、厚さ1尺ほどの石(力石神)を祀っているが、いわれはわからないと書かれている。

○宮の下
 童謡「夕焼け小焼け」の作詞者中村雨紅は、明治30年宮の下の宮尾神社宮司の家に生まれた。
 宮尾神社の境内に童謡「夕焼け小焼け」の歌碑があり、案下川沿いの夕焼け小焼けふれあいの里には、マスの釣り堀やバーベキューなどが楽しめる屋外施設や前田真三ギャラリー、中村雨紅展示ホールのある夕焼小焼館がある。

 夕やけ小焼けの里は、日曜日ということもあって、多くの人で賑わっていた。時間を見ると当初予定していたスタート地点の次のバス停「関場」まで行けそうなので、足を伸ばし遂に予定のコースを歩ききった。Kwさんは最後の数百メートルを歩くのもやっとの状態だったが、バスに座れる可能性を考えて歩いていただいた。
 関場の集落がっちりとした古民家や、古風な建物の上恩方郵便局があり、明治時代に帰ったような風景が残っていた。郵便局の近くの道路沿いにある関場の後には口止番所跡の石碑説明板のほか武田信玄の娘松姫の碑がある。
 バス停の奥で道も川も左右に分かれ、左(南)側の道は陣馬山の下の和田峠を越え山梨県上野原市へと続く。右(北)側の道はさらに山奥の集落醍醐への道となる。川も左は案下川、右は醍醐川と名を変える。

○関場
 江戸時代に高留には外部(甲州側)から村内を警備するため、柵を巡らせ門と番所があった。関所のような場所だったので、村人はここを「関場」と呼んでいたと武蔵名所絵図に書かれている。南の山の尾根には、関場峠の名もある。

 関場のバス停につくと既にここでも数人の客が待っていた。まもなく、臨時便の急行バスが満員の客を載せてやってきた。夕やけ小焼けのバス停から先は止まらずに高尾駅まで行くというが、定期便の路線バスもすぐに来るというから、定期便のバスを待つことにした。こちらは、乗客が少なく我々は全員椅子に掛けることができた。長距離を歩いたので、多少時間がかかっても座れる方がありがたかった。歩いて上がって来た道をバスで下る。昔の人はこの道を荷物を担ぎ歩いて朝八王子まで行き、夕方また歩いて帰ったという。夕やけ小焼けの歌は、中村雨紅がそんな帰り道の辛さを紛らわすため、子どもに置き換え童謡にしたのではないかとふと思った。バスは当初の予定通り5時ころに高尾駅に到着。いつもの南口で喉を潤し解散した。

【恩方の概要】
元は南多摩郡恩方村で、1955年4月1日に周辺の主な村(横山村、元八王子村、恩方村、川口村、加住村、由井村)とともに八王子市に編入合併した。
かつて作家のきだみのるがこの村の廃寺を仕事場とし、村の中で起こった出来事や住民との対話から「気違い部落周游紀行」等のルポルタージュを執筆したことでも知られる。
恩方の地形について武蔵名所図会は以下のように記述している。
「上下の恩方村あり。上下とも細く長き村にて、山谷の間に村居あり。上下を合わせて東西の長さ三里半余、南北は山峰なれば、至って狭し。」

 


この日の参加者


旧道に建つ庚申塔


心源院の境内


母屋と一体化した前田家の蔵

二十三夜講の石塔


浄福寺の石垣


浄福寺城の登り口


大久保集落の庚申塔


駒木野付近の北浅川


鐘楼から見た興慶寺本堂


興慶寺の鐘


中村雨紅の墓



上恩方郵便局


口止番所跡

散策コースの地図

 

       

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