江戸時代の八王子を歩く(2014 03 09)

 平成26年3月9日(日)13:30にJR西八王子駅にメンバー12人が集合。江戸の西の守りのために置かれた千人同心・江戸時代初期に八王子のまちづくりを主導し、昨年没後400年を迎えた大久保長安の残した痕跡などを江戸時代の絵図に描かれていた道を辿った。
 今回の案内は筆者にしていたが、八王子の歴史に詳しいFさんが参加されたので、説明をお願いすることにした。当初予定していたのは2月8日と一カ月前だったが、当日は大雪に見舞われ、八王子でも30cmから40cmほどの積雪となり、初めて延期を決定した。ところが、翌週も前の週を上回る大雪となったため、八王子はしばらく雪に埋もれることになった。一カ月後、漸く雪が消えたかに見えたが、歩いてみると日陰にはまだ雪が残っている状態であった。幸い当日は気温も上がり好天に恵まれ、西八王子駅から八王子駅まで7km余りを歩いた。
 今回も、若手2名と女性1名の初参加があり、中でも若手Mさんは北海道苫小牧出身ということで、八王子千人同心に関心を持っていた。

【馬場横丁】(千人町)
 JR西八王子駅の東の商店街の道を北西に向かい甲州街道を渡ると、「馬場横丁」と書かれた石柱がある。この通り付近に千人同心の乗馬練習場があったことらこの馬場横丁と呼ばれていたという。

【宗格院(そうかくいん)・千人同心と石見土手】(千人町)
 この通りを300mほど進むと左側に千人同心所縁の宗格院という寺院がある。寺の門のすぐそばには千人同心の事績碑や妻梅と共に苫小牧の開拓に命を捧げた千人同心河西裕助二百回忌の記念碑がある。なお、河西裕助の実弟塩野適斎は、桑都日記の著者として知られている。その他、境内には青銅製の慈光観音やお酒を供えると咳の病気が治ると多くの人の信仰を集めている「せき地蔵」八角堂に安置されている。八角堂の脇に石見土手(いわみどて)の説明板がある。石見土手は、現在の八王子の宿場の骨格をつくった大久保長安が浅川の治水のために現在の並木町から元本郷町にかけて築いた町囲いの堤防で、現在は宗格院本堂の北側境内にだけ、わずかに石積みが残っている。

【水無河原とあゆ塚】(日吉町)
 宗格院をさらに100mほど進むと南浅川の堤防に突き当たる。石見土手は、この南浅川の洪水から市街地を守るために築かれたもので、江戸時代の図ではこの辺りに霞堤が見られる。しかし、南浅川はこのあたりで伏流し、明治時代の地形図は河原の上を道が通っており、昔は大雨でもない限り橋がなくても渡れたようである。案下道(陣馬街道)と南浅川の交わるところにある橋の名は水無瀬橋(みなせばし)といい、この辺りの川は水無河原と呼ばれていた。
 現在の陣馬街道の南に並行して残る案下道は、江戸時代甲州街道が整備される前、甲州への主要道路だったが、甲州街道が整備された後は甲州街道の脇往還となった。八王子十五宿のうち島之坊・久保宿は、この通り沿いにある。現在の陣馬街道は、戦後案下道の北側に並行して整備された。
 案下道に面した島之坊宿に日吉八王子神社がある。 社伝では、日吉八王子神社は 天慶八(940)年の創立と伝えられる。その後衰退していたが、文禄四(1595)年に小田原北条氏の御貝役で島之坊の先祖俊盛が八王子明神を勧請し、由井領の総鎮守としたという。神社境内の入り口には、江戸時代に浅川の鮎を幕府に献上していたのを記念して 明治32(1957)年に建てられた「あゆ塚」がある。

【千人同心屋敷跡の碑・高尾山道の碑】(追分町)
 案下道を市内に向かうと甲州街道との分岐地点に八王子千人同心の住んでいた屋敷跡に碑が建てられている。甲州街道沿いにこの辺りから西一帯は千人同心に因み「千人町」という地名がついている。当時の絵図から、組頭は、甲州街道の南に居住し、一般の同心は、甲州街道の北側に多く居住していたことが分かる。ここから甲州街道を見ると案下道と一直線上になっているから、八王子の骨格をなす古い道であったことが分かる。
 この分岐地点には、文化八年(1811)江戸の足袋職人清八が高尾山に銅製の五重塔を奉納した記念に江戸から高尾までの甲州道中の新宿、八王子追分、高尾山麓小名路の3か所に立てた道標の1つが残っている。この道標は、昭和20年の8月2日の八王子空襲の際4つに折れ一部行方不明となり、基部は地元に置かれ、一部は八王子資料館に展示されていたが地元の要望を受けて行方不明の一部を補い復元された。明治15年測量の迅速測図の外側の空欄にもこの道標が描かている。少し前までは分岐部にある交番の前の甲州道中と案下道の分岐部にあったが、現在は甲州街道側に移されている。この道標の基部には、明治初期の水準測量の基準点として不号の印が刻まれているのを見つけた。

【日光を戦火から守った石坂弥次右衛門(いしざかやじえもん)】(千人町)
 追分の歩道橋を渡り甲州街道を200mほど西に向かい、交差点を左曲がると興岳寺がある。この寺の墓地には千人頭石坂家の11代目石坂弥次右衛門(いしざかやじえもん)墓がある。幕末、石坂弥次右衛門義礼(よしかた)は、日光勤番として日光に赴任した1ヵ月後、討幕軍として日光入りした板垣退助に東照宮を明け渡し八王子へ帰った。しかし、一戦も交えずに日光を明け渡したことへの批判を受け、責任を取って慶応四年(1868)4月10日に切腹した。後日になって、日光を戦禍から救ったことが評価されるようになり、墓のあるこの寺の境内に顕彰碑が建てられ、寺の入口には説明板が立っている。

【大久保石見守長安(おおくぼいわみのかみながやす)陣屋跡】(小門町)
 興岳寺の山門は、甲州街道の一本南の道に面しているが、この道を300mほど東に向かい、狭いが江戸時代から残る道を南に向かう。中央線の踏切を渡り、江戸時代の地図に描かれている中央線の南の道を東に向かう。一段高い段丘状に武田信玄の娘松姫が晩年を過ごした信松院の屋根が見える。本郷横町から信松院の横を通る道はアンダーパスになっており、道の一段高い右手には八王子市立第七小学校がある。この小学校を過ぎたところの交差点を北に向かい、再び踏切を渡ると左手の一段高いところに産千代稲荷神社があり、神社の入口には大久保長安陣屋跡の石碑と説明版がある。
 ここは、大久保長安(1545〜1613)が関東十八代官の頭として関東の統治を行うに当たり、八王子においた陣屋跡の一部と考えられている。陣屋の範囲は定かではないが、鬼門の方向に稲荷社を置いたとされており、この稲荷がそれと考えられる。陣屋の北、西、、南は土居で囲われていたが、ほとんど削平され、社が置かれたここだけに名残をとどめており、境内には当時からの古井戸も残っている。

【時の鐘】 (天神町 念仏寺)
 産千代稲荷の階段を下り北側を見ると、街中には珍しい高い煙突が目に入る。銭湯「松の湯」の煙突である。煙突を背に再び南に踏切を渡ると、正面の道は登り坂になっているのが分かる。先ほど歩いてきた道に戻り再び東に向かい300mほどで金剛院と天満宮の交差点に着く。大久保長安陣屋跡はこの金剛院辺りまで広がっていたという。金剛院は、昭和20年の空襲で全体を焼失したが、復興の努力を重ね、平成4年に高野山金剛峯寺から真言宗別格本山の認定を受けた。境内に祀られた寿老尊(寿老人)は、ひげの長い老人で杖を持つ長寿の神、福禄寿は、短身、長頭で、ひげが多く、文字どおり 幸福と禄と寿を授ける神様といわれている。金剛院と道を隔てた角には天満宮が祀られている。この辺り天神町の町名ゆかりの神社にしては小さな社である。天満宮の北側には、江戸時代に建てられた時の鐘の高楼が目を引く。鐘の下には石碑手描きの説明板があり、元禄十二年(1699年)七月に建立され、戦後まで戦中時を除き毎日十二回、二時間おきに打ち鳴らされ、八王子十五宿周辺まで時を知らせてきた。それまで太陽の動きに合わせて暮らしていた人々に時を知らせる鐘の必要性を感じた八日市宿の名主新野与五郎右衛門の呼びかけで八王子千人同心や宿内十五組及び近郷近在の人たちから集まった浄財で江戸神田鍋町の鋳物師椎名伊予が製作したものとのこと。

【千人同心の墓】
 天満宮の南の道を隔てた向かいは上野町である。江戸時代は上野原村と呼ばれていたように、八王子十五宿より一段高い台地になっている。天満宮のある交差点から50mほど東に向かうと右手に長祐山法蓮寺(ほうれんじ)があり、法連寺 には医師でもあり書道家でもあった 千人同心組頭、 並木 以寧(なみき いねい)の墓がある。法連寺から東に100mほど行くと道に面して本立寺の山門が目に入る。山門の傍には、板碑があり、本堂の南には地蔵堂がある。この境内には、千人頭 原胤敦(はらたねあつ)の墓がある。原胤敦は、寛政12年(1800)に蝦夷地御用を命じられ白糠に赴いた際、測量に訪れた伊能忠敬と逢っている。また、植田孟縉(もうしん)や塩野適斎(てきさい)らとともに「新編武蔵国風土記稿」の編纂にも従事し1827年2月9日に没した。

【興林寺 弘安の板碑】(子安町 興林寺)
 上野町を過ぎ、国道16号の交差点を渡ると道は周囲より高いところを通っており、横山町の交差点から南へ向かう道は中央線を陸橋で越える。この陸橋の東は江戸時代の子安村で、駅に南側に興林寺や前回歩いた野猿街道へ続く古い道が僅かに残っている。興林寺境内には、弘安の板碑がある。この板碑は歴代住職の墓地に頭部が少し見える状態で埋まっていたものを大正の中ごろに掘り出し、現在の位置に保管するようになったといわれている。碑面には大日悉地真言(だいにちしっちしんごん)が記されており、全国的にも稀少な板碑(高さ111cm 幅36cm 厚さ5cm 建立 弘安6年(1283)6月26日)である。

【 新藤家に伝わる大版の地番入り地図】
 早春の日はまだ短く、夕方になり雲が広がったこともあって、気温も下がってきた。
今回は横山町の新藤家で大正元年に作成された八王子の地図を拝見させていただくことにしていたので、陸橋を渡り北に向かった。到着後3枚に分かれて印刷された地番入りの大きな地図を見ながら、新藤さんのお話をうかがい、帰りがけに新藤さんと参加者で記念撮影して、懇親会場に向かった。

 懇親会は、JR八王子駅の南にある「八王子ロマン地下」で、アルコールを飲みながら2時間ほど情報交換をして解散した。
 懇親会では、苫小牧市出身のMさんに苫小牧市の千人同心の資料を提供していただいたり、八王子の歴史に詳しいFさんが八王子の「横町」や遊郭の資料を提供していただき、話題は尽きなかった。



(参考)
●八王子千人同心
徳川家康が関東入国とともに、武蔵・甲斐の国境の甲州街道警備を目的に設置された郷士身分の集団で、当初は五百人同心として設置されたが、慶長4年(1599年)には同心を倍に増やし八王子千人同心ととして旗本身分の八王子千人頭の下に十組・千人で組織され、幕末まで存続した。同心は平時は農耕に従事し、年貢も納める半士半農であった。(平同心は任務時だけ幕府同心の身分だった可能性がある。)
任務は当初、武蔵・甲斐国境の甲州口の警備と治安維持であったが、治安が安定した17世紀半ばからは、日光東照宮を警備する日光勤番が主な仕事となり、19世紀に入ると寛政12年には集団で北海道・胆振の勇払などに移住して蝦夷地の開拓に携わり苫小牧市の基礎を築いたり、文人として、幕府の学問所であった、昌平坂学問所で新編武蔵風土記稿の執筆に携わる者、蘭学を学んだ医師や思想家、新撰組の剣術として知られる天然理心流の剣士などを輩出した。
新編武蔵風土記稿の編纂には、千人頭の原胤敦(たねあつ)、組頭の植田孟縉(もうしん)と塩野適斎(てきさい)が携わり、武蔵野名所図会は植田孟縉、桑都日記は塩野適斎が編纂したものである。

●大久保長安(おおくぼながやす)(1545〜1613年)
大和国出身の猿楽師として武田信玄仕えるうち。長安は信玄に見出され、譜代家老土屋昌続の与力に任じられ、蔵前衆として鉱山開発や税務などに従事したが、武田氏滅亡後は徳川家に仕え、関東代官頭として八王子にに陣屋を置き十八代官を統括して検地を一方、八王子の宿場の建設を進め、浅川の氾濫を防ぐため堤を築いた。また、武蔵国の治安維持と国境警備のため旧武田家臣団を中心とした八王子千人同心を誕生させた。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦い以降、石見銀山奉行や佐渡銀山奉行として徳川幕府の経済基盤の確立に行政手腕を発揮したが、晩年に不正蓄財の疑いをかけられ、長安没後に一族は粛清された。昨年は長安没後四百年を記念し、郷土資料館での特別展等が催された。

●石見堤(土手)
【武蔵名所図会石見堤】
「天正(1579〜92)の初めに北条氏八王子城居の頃、小仏川、椚田川出水して、いまの散田新地というところは川瀬となり、それよりいまの千人町通りを流れて本郷村の下より浅川へ流れ入りける由。その後、八王子城陥りし後に、城下町の亡民を今の八王子町へ引き移されし後も、洪水またも島之坊宿辺より市中へ流れ入らんとせしかば、石見守下知を伝えて由井領、小宮領、日野領の村々へ課せしめて町囲いの長堤を築けり。新地と千人町の堺なる地蔵堂の脇より千人町裏通り、馬場地の南附きの土手へつづき、宋格院脇より島之坊宿の限りへ出て、本郷村多賀神社の裏通りより同村田圃の辺まで、上は坤の方より艮の方へ凡そ長さ十四、五町、敷三間余、高さ七尺許なり。石見守の功を以て築営せり。村民水害を避けければ、土人称号して石見堤と云。」

●水無河原
【武蔵名所図会】
「島之坊宿に接す。洪水のときには水瀬あれども、忽ち水涸れて河原となる。川上の原宿と号する辺りまでは常に流れて、新地村の裏より一滴の水なく地中を潜流して、本郷村より末に至りて湧き出せり。その間凡そ二十町余なり。それゆえ、この河原を水無河原と呼ぶべきものぞ。字の如く唱うるはあまり鄙野の訓というべし。又云新地にては、この河原を吉田河原と名づく。この川の水源は上椚田村より一流、また小仏宿の澗流一筋、この二流の水は河原宿と小名字との辺にて合流して一流となす。」
【水無河原の伝説】
「昔、弘法大師が諸国を巡歴してここに通りかかったとき、大師は永い行脚の疲れでのどの渇きを覚えていた。川のほとりに茅葺の家が一軒あったので、大師はそこに立ち寄り水をもらおうとしたが、この家に住む老婆は「夏は水汲みが苦労だから安々と飲ませるわけにはいかない。」と言って一杯の水さえ与えようとしなかった。仕方なく大師は川に降り喉を潤し、何事か呟いて何処へか立ち去った。その後、川の水は大師が下りたところから上下二、三町の間地面を潜って流れるようになったという。」

●八王子十五宿(十五組)
横山宿(横山町)、八日市宿(八日町)、八幡宿(八幡町)、新町、寺町、上野原村(上野町)、小門宿(小門町)、八木宿(八木町)、本宿(本町)、子安宿(子安町)、久保宿(追分町)、島之坊宿(日吉町)、本郷宿(本郷町)、横町(大横町)、馬乗宿(中町、南町) ( )は現在の地名

 

散策ルート
写真位置


宗格院庫裏に残る石見土手


南浅川と現在の堤防


水瀬橋


日吉八王子神社境内


千人同信屋敷跡の碑の前で


高尾山道の碑

産千代稲荷神社にて


産千代神社境内に残る古井戸


金剛院本堂


時の鐘


並木以寧の墓


 横山町新藤家にて

 

 

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